10-9『あきらめ、唇を噛み、いつものように』
補佐官の叩きつけた言葉に、時計屋はいくらかの同情を示すこともできた。互いに最も敬愛する主君を、どうしてか別人だと感じていることは言葉による伝達がなくとも正確にくみ取っていた。
明かされた言葉通りに本当に時を繰り返しているというのなら、目の前に座しているのはこれまで共に時を過ごしてきた主君ではなく、時を積み重ねたまま、手放すことができなくなった男だといえる。
――それは決定的なことだろうか
美しい記憶に泥を塗ることはない。時計屋はそう決断をした。
「さきほど、どうして抱きしめられたのか不思議に思いましたが、得心しました。私は、死んだのですね」
聡明な主君の顔が一気に苦し気になったことで、時計屋は一時的な慰めを得た。気にすることではないと薄い微笑に意味を乗せる。実感は当然ないが、主が再会を喜んでくれたことは純粋に嬉しかったのだ。きっと主のために生き、主のそばで死んだのだろう。ならば申し分ない人生だった。
「私は陛下だけの時計屋。私の特性も知恵も、貴方様に委ねます。お二人はいかがですか?」
文官長と武官長は、互いを見ずに答えた。
「……理由があろうと、軍勢もなく、逼迫した状況であることには変わりはありません。それでも我をお通しになるというのなら、上策はございます」
「精鋭を連れてゆけばいいのだ、そうだろう?――――わしが同行しよう」
武官長は不敵に笑み、文官長の方へと顎を寄こした。
「お前も来い、ソフィー。王国を枕に死ねる最後の機会だ。報いたい一矢もあるだろう」
「今更老人が出張るつもりはない。私は防衛の方が性に合う……葬送の準備くらいはしておいてやるよ、ヴァルター」
「それはいい。派手に頼む」
「――さて、貴方はどうなさいますか。高潔な補佐官さま」
補佐官は拳を硬く握りしめ、肩を震わせていた。時計屋を映しもしない瞳には、怒りと悲痛が渦を巻いていた。
「私は……陛下の死と、知らない女の死を、等分に並べて選ぶなんてことはできません。私一人が間違っているというのでしょう? 頭が固く、融通が利かず、主君の願いに応えようとしない腰抜けだとお思いなのでしょう……」
四人の耳に達しているそれは懇願であった。普段、他者の懇願を規律のもとに強く叩き潰す地位にある男だ。感情を押し出す行為がいかに役に立たないかは、彼自身がよくわかっている筈だ。時計屋は、そうした皮肉を舌に乗せるところまでいったが、顎をぐっと引いた。
手があげられていた。魔王は片手で時計屋を抑えとどめ、大きく口を開けた補佐官に誠実に向かい合おうとしていた。食って掛かる構えもなければ、ここまで叫びを浴びせられても深い疲弊が拭われることはない。頑として耳を貸さないのは果たしてどちらか――焦燥をかきたてられたのは、補佐官の方だった。身を固くして、罪人のように断罪を待った。
「お前のいうとおり、死を賭けて夢見るべきことではないのだろう」
「は」
「お前はいつも正しい。いつでも……それは誰よりも俺が承知している」
「……聞きたくない…!」
補佐官は、頑是ない子供のように首を左右に振った。
「……もう……死に過ぎてしまったんだ。なにをしても果てに死があり、通り過ぎることを拒まれている。俺は、意志し、望むことはもうない」
「なら、貴方の話は何なのですか? 主張でも、要求でもないのなら、何だというのです」
「……」
まだ諦念を装う男に、食らいつきたかった。自分の生温かい場所を抱き締めたまま、誰にも壊されたくなかったからだ。それがたとえ、敬愛する主君の皮を剥がすことになろうとも。
補佐官は懸命に抗っていた。
「貴方は国だ……魔族にとって、かけがえのない人なのです……」
「……そうみたいだな」
「あッ、貴方は! 望みはないと言った! 嘘をついている! それほど大切ならばそうおっしゃったらいい!」
「欲しい」
補佐官の目を、魔王は深く、深く覗き込んでいた。
「一度きりの終わりが欲しいんだ」
それから、孤独を生き過ぎた男は、自らの右手の薬指から指輪を抜き取ると机の上に残した。先代より譲り受けた王の指輪を、二度と見ようとはしなかった。
補佐官はすとんと、椅子に腰を下ろした。
もう自分の知る人ではなくなってしまった、そう思ってしまった。蝋の一滴が落ち、足元に蓄積した蝋の塊が、彼であった。死そのものの形をして、残蝋の男は力のない笑みを浮かべていた。
「……許してくれとはいわない」
知らない男の声は、室内のすべての澱みの元であった。
男は謝罪の代わりに感謝を告げた。補佐官は顔を大きくそらしたまま、俯いてそれを聞いていた。
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