10-5『あきらめ、唇を噛み、いつものように』
「いくらだってある。ありすぎるぐらいだ。領地のこと、一族のこと、まだ伴侶を選ぶ気のない息子どものことも。頭が痛いわ」
「…………」
魔王は、補佐官や他の面々の顔を見た。みな、議題に困っていないという顔をしている。
視線を机上に戻し、魔王は沈黙の中で思考を泳がせた。ここに座る面々に、自らと同じように記憶があればと考えた。武官長であれば、伴侶探しの話のあとに新しくできた娘のことを付け加えたはずだ。後ろ盾となるために自らの姓を与え、ルカ、ノクス、アルバの三人を養子にした男だ。武官の統領たる彼だからこそ、その地位で反発を抑え込む方法を知っていた。
だが、ここにいる彼にはそうした記憶もなければ、この時の中で同じ行動をとるのかも定かではなかった。
「言葉を巡らせているのだろう?……その一端を預けてみろ。わしでも、他の者でも」
全員の視線が、上座の魔王へと集中している。静寂のなかで暖炉の薪が爆ぜた。炭が崩れて、深奥の熾火が覗く。真っ赤な内側が――
「……迎えに行きたい人がいる」
その声色は、魔王たる男には相応しくないものだった。
「どちらに」と、待ちきれず補佐官が訊ねる。
「……王国だ」
乾いた土に水を注いでも、染み込むまで時間を要するものだ。たとえ、どれだけ水を欲していたとしても、許容できないこともある。魔王は誤魔化さずに、女とその家族を迎えに行きたいと話した。
髪は長く、寝間着に外套を軽く羽織っただけの格好をしていても、際立って優れた風貌に心を奪われぬ女はいない。だというのに、魔王は終始視線を下げ、己の価値のなさに耐えかねているといった様子だった。身を切り出すように紡がれる言葉には、大きな勇気を持ち出して言葉のまことを示そうという心がつながれていた。
臣下である前に、友人として長い付き合いを持っていた面々は、驚きをあらわしこそすれ、耳を傾けることが礼儀であった。たどたどしい声が言葉を結び終えるまで、沈黙でもって応える。補佐官は、あまりの衝撃に椅子を蹴るようにして立ち上がり、その表情は驚愕と激しい困惑に染まっていたが、背後に突然現れた時計屋に「まぁ、お座りあそばせよ」と肩を押しつけられて再度腰を折った。
いくらでも考えることはあったが、話し終えたあとしばらくの沈黙があった。しかし、結局口火を切るのはいつもこの男だった。
「――反対です」
補佐官は終始真顔で、目の前に置かれていた果実籠を遠くへ押しのけた。
「――断固として反対いたします、陛下。どんな理由があろうと、貴方がただお一人で敵陣へ赴くなど、到底容認できることではございません。魔族領は特性や容姿を理由に、長年一方的な攻撃を受けてきました。人間どもの全面対決を想定した戦備は蓄えておりますが、完了してはおりません。貴方が王国へ行けば、それ自体が宣戦、あるいは屈服を意味いたします。充分な正当性も、事後の策も示されぬままの突出は、内政を預かる身として到底受け入れることはできません」
捲し立てる補佐官の横で、時計屋が静かに、だが真面目な声で言葉を添えた。
「……御身を案じて仕方がないから、まずこの城にて目的をお聞かせください、と言いたいのです。残念ながら私も同意します」
黙れと語気を荒げて一喝する補佐官に、時計屋はそれ以上何も言わず、ただ己の唇の前で蝶結びをする仕草をして、椅子の上で尻を滑らせた。
今度は武官長が重厚な身体を揺らし、前のめりになった。机上で両手を強く握り合わせると、しきりに揉みこむ。
「武官として発言させてもらう。王の出陣とあれば一人で行かせるわけにはいかん。軍の配備を早急に変える必要がある。北方要塞の防備を増強し、敵の反撃に備えておかねばなるまい。そのため常備兵の半数を割き、退路を確保するための進撃隊を組織したい。残る半数は領内の防衛に就かせ、二方面の備えを固める。王国との戦は元より想定はしている、出来んことはないだろう。理由が何であれ、陛下が動かれるなら、わしをはじめ、武官は王国を灰にする準備を整えるのみだ」
対面、眼帯の女が挙手した。
「なら、文官として意見を言わせてもらう」
発言の前に、行儀よく競いたいわけじゃないよ、と付け加えられる。一瞬目を丸くした老齢の男は、旧友に対して片頬を吊り上げて応えた。
「陛下、武官長の進言を実現するには、時間と物資が欠かせません。我が領の食糧事情は、度重なる凶作により極めて綱渡りの状態にあることはこれまでの会議でも伝達してある通りです。その上、王国軍の蹂躙から逃れてきた難民の数は日ごとに増え、居住地は逼迫の極みに達しています。城の拡張と新興地区の建設も、建築資材と人員の不足により、未だ半ばも済んでいないのが現状。今、この時に大軍を動かし、あるいは王国からの逆襲を受ければ、領内の民は飢えと混沌に落ちるでしょう。こちらの基盤が揺らいでいる今、大戦を引き起こす時期としては最悪と言わざるを得ないのです」
「表と裏だな」と、武官長は事も無げに意見を肯定した。
「……優先すべきは自領、民でもなく、陛下、貴方です」
補佐官の声は切実さを帯びていた。
「我ら一同、貴方様の武勇が人間ごときに劣るとは思っておりません。貴方様はこの世界の誰よりも気高く、そしてお強い。しかし、一国の王たる者が、ただその身一つで敵地に赴くという悪例を遺すわけにはいかないのです。でなければ、我が国の法と秩序を、貴方様自身が否定することに繋がってしまう……どうか、お考え直しください」




