10-4『あきらめ、唇を噛み、いつものように』
辞退する気力がないという一種の堕落のもと、魔王はむしろ進んで無人の評議会室に入り、高背椅子に深く身を預けた。
誰一人到着しておらず、室内は静まり返っている。
人目が無いことに乗じて初めての場所を訪れた子供がするように、室内を眺めた。中央にある長机は、大木から切り出された分厚い一枚板だが、往々あるように議論の言葉が染み込んでいる。向かい合う椅子をなぞっていくだけで、語気を荒げる面々の横顔を思い出す心地がした。首を巡らせ、壁に飾られた紋章旗や、羊皮紙の地図をじっと眺める。砦の位置や、山脈の連なり、そして目を王国の方へ向けると、自身の業に疲れを感じて目線を下げた。
「お待たせ致しました、主。先程お伝えしたお三方に、お越し願いました」
やがて集められた三人は、時計屋の特性によろめく者もあれば、転移のむずがゆさに耳裏を勢いよく掻くなどしていたが、すぐに互いを一瞥し、そろって王に臣下の礼を執った。
席につき、いくらか言葉を交わし、差し迫った戦況の報ではないとわかると、ようやく肩から力を抜いた補佐官は、時計屋へ小言の大波を贈った。
時計屋も議会の進行役を務めるわけでもなく、好き勝手な雑談に興じる。文官長は議案の開示を求めるべきかと眉間の皺を深めたが、向かいに腰かける武官長が、深夜の猟獲について報告を兼ねた雑談を始めたので、様子見の沈黙を選んだ。
大抵背負っている重剣を御用鍛冶に預けてきた男は、しきりに肩をあげて重心の違いに神経質になっている。報告を終え、所在ない手を果物籠に伸ばすと、肘に実の尻を擦りつける。豪快に口を開けるところまでいったが、拭いきれぬ擦過痕でもあったのか、むしろ口を曲げ、何か言いたげな目を果皮に留めていた。
「忘れないうちに伝えておかねばならんが、俺の七番目の息子がようやく救抱院を外れる目途が立った。寝台の上で過ごしすぎたせいで、体の弱まりは凄まじいが、院外へ一歩でも出れば、木陰の涼やかさや風のそよぎひとつに泣いてしまうかも知れないと言っておった。本人の粘り強さとともに、おぬしらが滋養のある果物や本を差し入れてくれたおかげでもある。感謝する」
武官長の言葉を聞き、補佐官の顔に隠しきれない喜びの色が浮かび上がる。だが、それを態度に出すことはなく、すぐに何事もなかったかのように視線を戻すと、「まさに知こそ薬なれ、ですね」と言った。いくら心を鎧で固めようと、言葉の端から嫌味な持ち味が省かれていることに周囲は気づいている。
けれど、時計屋は叩けば鳴る玩具を見ると、手を伸ばさずにはいられない。
「知こそ薬? なんとまぁ特別苦そうですね」と、両手で開いた本を舐める仕草をして、大仰にあえぐ。対する男は、外用の作り笑いを浮かべた。
「へぇ? 本を読んだことがあったのですか? 」
皮肉混じりの笑みを、時計屋は道化らしく口角を吊り上げて、狂気的な笑みで受け止める。
「あら、ご存じない? 多読家であらせられても、視野の狭さは治らないものなのですねぇ」
「ちッ、忌々しい……」
応酬を聞いていた文官長が、武官長へ体ごと向き直る。眼帯に遮られない方の目で捉えるため、彼女はよく相手の方に正対する。鍛え上げられたその背筋は、老齢を感じさせないほどに真っ直ぐ伸びていた。
「書き終えたばかりの本がある。写本にまわすが、最初の一篇を送りたい。どうか」
「異存はない。それを聞けば、あやつも喜ぶだろう」
武官長が父親らしく相好を崩して頷く横で、時計屋が芝居がかった手つきで息を吐く。
「採決の度に喧嘩で、顔合わせれば面当てに躍起になるお二人が、こうも美しい心配りをみせていただけるとは。感動致しました」
「黙りな。職務に私情を挟んだことはないよ」
文官長の一蹴に、時計屋は親愛を込めた笑みを浮かべた。
「もう十年前なら、交際をお申込みするところです」
「お前の相手は息が切れる」
「同感です」
臣下の軽妙なやり取りを、上座で動かない魔王はただじっと、どこでもない場所を見つめていた。その目を埋める翳りに気づいた武官長が、男へ向けて果実を投げた。眉根を寄せた魔王は片手で受け、手中の果物と武官長を見比べた。
「何かお前もないのか、ヴェルクサルト」
配下であり、叔父である男の声に、魔王の唇は時間をかけて開かれた。
「…………お前たちはよく、そうまでして話すことがある」
呆れた様子で武官長の片眉が吊り上がった。




