10-3『あきらめ、唇を噛み、いつものように』
魔王は振り返らず、何も答えなかった。言えなかったのだ。その心針はまだ迷っていた。檻の中に自ら居座ることが、自分の運命であり、彼女を解放すべきだと考えている。この朝が「繰り返されるうちの一つの道筋」だとすれば、ここで城に籠もることも手ではあった。
一方で、記憶たちが今も胸の奥で確かな存在感を放っていた。殺してと縋るいじらしい女の声が、魔王を立ち止まらせている。
――――ヴェル、自分がつくりだす影を怖れてなんになる
俯く顔に流れ落ちてきた髪を両手で払いそうになった。祭事用に目尻に塗りつけられた朱を、女のようだと拒むように、刷毛を弾くことで何もかもを仕切り直しにしたかったのだ。
けれども、転がる刷毛を空想しただけで、まわる残像が何を作り出すわけでもない。生を繰り返しておきながら、室内深く戻ろうとする背があるように、軽蔑と行動は異なった。
「…………」
魔王は目をあげた。
前を向くと、外廊下の角に消えていく父の後ろ姿があった。すでに彼方に去ったはずの、その残影が向かった場所は、朝にしては暗い廊下の奥、そこだけ酔うような光が当たっていた。
突然足を止めた魔王に、時計屋は衝突を免れようと体を斜めに強引に捻った。上着の裏に仕込まれた懐中時計が揺れる。滑り出してきた時計を袖へ入れると、時計屋は数歩離れたまま主の背を見上げた。
魔王は、父の残滓をかき集めようとしていた。片目が痙攣し、いびつな顔になる。
男の体はどこまでも祭具と成ることが課せられていた。未熟な振る舞いを見せないように、機敏に動いたり、感情を見せることはしないように躾けられている。王としての洗練を欠いた姿を領民にさらすことは許されないからだ。いま、そうした全身に生えた鱗をなぞっている自覚があった。たった一枚の、逆鱗を探そうとしていた。
(……父上。俺が選ぶものは、いつも碌な結果にはならない……)
野薔薇の絡まる廊下には闇が散在し、その中に己の澱みが滲んでいる。父の治世であれば、誰もおびやかされず、領地ははるかに多くの幸福が占めていただろう。魔王は顰めた顔からすっと感情を消し、自分の足元を見下ろした。重くなった足に、蔓が絡んでいてもおかしくはなかった。そこにあったのは、魔族を背負ってきた父の足跡に比べれば、いまだ地を踏み固めることすらおぼつかない、未熟な足でしかなかった。
「あるじ!」
刷毛の滑る音は、記憶ともども時計屋が張り上げた声にかき消された。振り返れば、大声の効果を覚るなり時計屋は笑い、こう訊ねてきた。
「困りました。役付きどもが、この時間にどちらで待機しているか、私の記憶から一瞬抜け落ちてしまったようです。わたくし時計屋は時を告げることが役目。このままではお役目を果たすことが叶いません。我が主、どうか私の怠慢を咎めるついでに、その場所をお示しくださいませんか」
時計屋に時を告げる役目を課したことはなく、役付きに興味を催して近づくこともあまりない。そもそもこの男は、自由を愛し、誰よりも自由を演じたがっているのだから、これは何かを円滑に進めるためのやむを得ない嘘であった。
時計屋が何を求めているのかわからなかったが、記憶を思い返して、こう答えた。
「……武官長は、狩りから戻って来たばかりだ。まだ武庫にいるだろう。湯屋にいく前に捕まえれば話はできる。文官長は、文官指針と逸事集の執筆で、執務室で夜を明かしているはずだ」
笑みを深め、頷く男を一瞥し、続ける。
「イリアスは、今日は諸院で倫理学を講じる予定が入っている。つまり既に諸院に発っている……数時間苦言を呈される覚悟があれば、呼び戻せばいい……」
自身に比べれば、はるかに有能な者たちだった。全員口を揃えて王と呼ぶのを聞けば、凡庸さがいつになく強調されるだろう。
「では、主はこのまま評議会室へお向かいください」
「何のために」
「必ずお越しくださいね。そうでないと、あの男を呼びに行くという私の、一生に一度の大我慢が、ただの骨折り損になってしまいますから」
言い終えると、時計屋の姿は消えた。特性を使用し、誰かの元に飛んだのだ。足元に浮かんでいた術式が音もなく消えていく。
評議会室へ――――けれど、まだ返事をしておらず、理由をつけて断ることもできた。
しかし、廊下の奥から清掃を終えた侍女らが、箒と木炭の詰まった桶を両手に歩いてきた。彼女らは足元に注意を払っており、中庭に面した各部屋の分担を短く話している。ここで鉢合わせ、立ち話をするのも、あるいは所在なげに佇む姿を見られるのも、好まなかった。今は誰にも傅かれたくはなかった。
そうして魔王の足が向かったのは、図らずも、先ほど時計屋に告げられた評議会室のある方向だった。




