10-2『あきらめ、唇を噛み、いつものように』
かけられた声に、魔王の肩は過剰なほどに跳ね上がった。
振り返れば、そこにはもう一つの幸福が、ありありと朝日を浴びて機嫌良さそうに歩いてくる。袖口から落とした懐中時計を開閉する芝居がかった仕草や、顎を少し上げて歩く気位の高さまでもが懐かしく思えた。
日課である朝の挨拶にやってきた男を、いつもなら横に並ぶまで動かず、風通しのいい距離に迎え入れたはずだった。けれど魔王はこう念じなければならなかった。
(これは、あの時計屋ではない……)
「特性」を利用され、王国軍の大軍を転移させられた負荷に耐えられず、何事かもわからずに死んでいった。その記憶があったのなら、こうまで軽やかな笑みを見せてくることはなかっただろう。記憶があるのはこちらばかりで、習慣から、いつもの味気ない自分を演じることが役目であった。だから装うだけの仕度をしようとした。
もしも、唾液に溺れながらうめき、目をぎょろりとこちらに向けたまま、苦痛のなかで死ぬ男を看取っていなかったのなら、寝間着の上に羽織った外套を押しつけるように、強引に抱き寄せたりはしなかった。
「敬愛する主君に心よりのご、ぁ……っ、!?」
さて意気揚々と片手を広げていた時計屋は、抱かれた勢いで外套を口に含んだ。
挨拶を許されなかったのだと、全く的外れなことを考えて傷つく。けれど、肩口にぴったりと押し合うほどに体を潰され、背中にまわる頑なな手を感じれば、それが抱擁であると気づいた。
時計屋は慌てて身を離そうとした。主君の体に触れることはできず、両手は宙を掻いた。しかし、魔王は離れていかず、時計屋はしきりに顔を動かして好都合な顎の置き場を探したが、上背の高い男との差を感じるばかりだった。次第に抱擁への驚きよりも気遣いが勝ち始める。背中に触れていいかどうか、声をかけていいものか考え、結局眉間に深い皺を刻んだ。
生涯を捧げるに値する主君だと敬愛しているが、あくまでも額縁の中にある肖像のようなものだと思っていた。枠から飛び出てきて腕を回されることは、いわば究極のふかしぎな体験であった。
魔王はそんな狼狽を意に介さず、さらに腕に力を込め、壊れんばかりにその体を強く締め付けた。衣服の向こうから返ってくるのは、自らの肉体と比べて脆い感触で、命を抱いているという実感があった。しかし、それだけだ。
もしも武官長であれば、肩を何度か叩いて、再会を無言で祝うだろう。時計屋は骨が砕けたと言って嘆くが、面差しに滲み出るやさしさに気づくはずだ。文官長であれば、両腕を掴んで揺さぶり、何事にも動じない女の深い深いため息に、時計屋は余計な一言を言うだろう。補佐官であれば、互いに一瞥して舌打ちで済ませる。だというのに、自分は他人の感情を徒食するだけで、己の感情を表現する術すら知らないのだと、魔王は自身を呪うしかなかった。
時計屋を解放してもなお、たずねるような目を見せている。そんな、何故か落ち込んでいるように見える魔族の王の姿に、時計屋は喉をつまらせた。
「んんッ゛!?」きつい咳払いのあと、「あのう、陛下……? 何か、お心を煩わせるようなことでもございましたか……?」と恐る恐る訊ねた。
「いや……」
言葉より先に首を振った男の姿に、時計屋は思わず自分の角の根元を掻きむしりたくなった。
「で、では何故私をお引き寄せになったのですか?」
音にするとおかしな問答ではあるが、この場には純粋な者しかいなかった。
「これは……、親愛の証だ」
「し、……しん、あい?…………それは、なんとも……」
時計屋は一度、自若としてこちらを見下ろす大木に目をやった。美しい木だ。ふたたび魔王を見れば、男が忌まわしさに唇を噛んでいることに気づいた。
親愛の証――そう言って、ルカが魔王を抱き締め、時計屋のことも同じように抱きしめようと振り返ったところに、「結構です」と言って後退ったことを、ここにいる時計屋は知りもしない。記憶を紐解くのもいい加減にすべきだと、魔王は首を振った。
声をかけようとした時計屋は、機を失したことを思い知らされた。魔王の顔が、見慣れた諦観に塗り替えられていた。
なぜ親愛を向けてくれたのか、どんな思いが、その引き金となったのか。胸騒ぎを覚え、時計屋は会話を元に戻そうとしたが、既に気持ちを封じ終えた魔王は、その場を離れ始めていた。
魔王の背中を追うに任せて歩きながら、時計屋は困惑した声を投げかけた。
「拝礼がお済みでないのでしたら、まだ言葉を交わす時間はあるはずです。我が主、どうか……何事でも構いません、私にお聞かせいただけませんか」




