10-1『あきらめ、唇を噛み、いつものように』
剣は去った。余韻も残さぬ中庭で、魔王は頭を俯け、まだ言葉を探した。
「………」
頭の中に浮かぶのは、唯一の女のことだ。だが、その心までの距離を測ろうとしても、記憶の栞は端から抜け落ちていく。
生きる者は、己の信ずるものを必要とする。心に据えるのが自身である者もあれば、他者や、姿かたちのない存在に心を委ねる者もいる。
自分は一体何を信じているかと考えたとき、父の言葉を思い出した。それは裸身の本ではなく、男という生き物が誰しも持つ、唯一装丁された無骨な本であるといえた。
かつて、父は言った。『人は記憶の中でだけ、信仰と出逢える』のだと。信仰という言葉は、魔王である父のためにあると思っていた。父は魔族を守り、拠り所として尊敬を集めている。そんな父が何を拠り所にしているのだろうかと考えると、それは紛れもなく母のことであった。父は正答を嬉しがって、分厚い手で頭を撫でてくれた。
『私にとっての信仰は、私の妻であり、お前の母であったひとだ。今はもう、ことなる時間の流れによって、逢うことは叶わない。その流れが何であるか、わかるか?』
俺は、記憶だと答えた。
死によって隔たれてしまった場所に、雲のように漂っているもの。
母の顔も、声も忘れてしまった俺は、不意に失くしたものの大きさを思い出して気を塞ぐことがあった。けれど、こうして暖炉のそばに、椅子ではなく床に戯れに足を崩して座り、炎の揺らめきに彩られた横顔を見ていると、急に目の奥が熱くなった。
己の寂しさだけで手一杯だったことに、そのとき初めて気づいたからだ。
あの完璧な父さえ、心が張り裂けそうになる日もあったはずだ。そうした合図を、もし見逃していたら。そう思うと、胸がぎゅっと締め付けられ、溢れそうになる熱い塊を必死にのどへと押し戻そうとして、うめいてしまったことを覚えている。泣き方もしらない子供だった。
『う゛…ふーっ、……うーっ』
『ふは、なんだヴェルクサルト。堪えなくていい、いまは二人だけだぞ』
『うーーっ、……は、ぃ。ぐすっ……ちちうえ……わたしはおそばにいます。ずっと……ずっとですよ』
『あぁ、わかっている。なに、そう悲しむことはない。お前の母はここにいるのだから』
手の甲で角を、こんと叩かれる。俺は驚いて、両腕をあげて自分の角を握った。
『この、なかですか?』
『そうだ。お前もいつか、心の中で信仰と出逢うだろう。その時が楽しみだ……』
『わたしは……記憶の中はいやです』
『……逢いたいからか?』
『おはなしして、いっしょに、さんぽに、いきたいです』
『散歩? ふふっ、麗らかだな』
破顔しっぱなしの父は、もしかすると、あのとき泣いていたのかもしれない。火を映す瞳のきらめきを見上げていると、あぐらをかいた父の足の上に招かれる。膝に頭を乗せたまま寝そべると、ずっとこちらを見ていて欲しくて、手を伸ばして顎に触れた。父は「お前はやさしい子だな」と微笑しながら、重い腕輪を嵌めた幼い手を、自分の胸へと引き寄せ、押し当てた。
『ヴェルクサルト……お前がいるだけで、どんな苦しみも終わりを告げる。妻が私にとっての夜明けであったように、お前もまた人々を照らす太陽であるからだ』
片腕で軽々と抱き起され、頭の上で、ざり、と角が合わさる。つつましげな触れ合いは神秘的な力に染まる。
これは、疑いようのない、幸福な、記憶だった。だというのに俺は、一転して瞼を閉ざしていた。暖炉の前にある優しい記憶から目を背けたかった。今更のことだ。優しさに殺されるのを怖れていた。
『お前もいつか必ず、目に見えなくとも愛し、自らを捧げる相手ができるだろう』
そうかも知れない。だが、俺という檻に閉じ込めるということになるのではないか、そう考えた。彼女はもっと自由であるべきだ。剣が現れた時点で、「今」は「かつて」と同種ではない。すでに俺から解放されているのだとしたら、助けを装って手を差し伸べることは、苦悩を植えつけることになるのではないか。もしも、俺が父のように賢明であるならば、檻の中に自ら居座ることが、運命の形姿ではないのか。
『お前はすでに無知ではない。不安がお前の心から勇気をぬすみとっている。本当に、不安に打ち勝つ手段はないというのか?』
記憶は、俺自身とはあくまでも隔絶しているものだ。もしも変容するならば、それは俺が歪め、恐れおののいているからこそ見せるまやかしであった。
『ヴェル、自分がつくりだす影を怖れてなんになる』
なのに、父は、「俺」を呼んでいる。
『光が強くあれば、闇もまた深くなる。だが、太陽は己の影を怖れて、輝きを止めることはないのだ。そうだろう――私達の、――』
――
―
「こんなところにいらっしゃったのですね、我が主――私たちの太陽」




