9-27『一頭の羊』
――静まり返った城の中に、かすかな衣擦れの音が響いた。
身に被った泥も、崩れ落ちる庭園に満ちる戦塵も、すべてが嘘のように消え失せている。
魔王は、自室の慣れ親しんだ寝台の上で目を覚ました。すぐに、薄暗い室内へ天窓からさしこむ唯一の陽だまりを見つけ、その向こうを睨んだ。青空に絹のような雲が流れている。目を凝らしても、そこに「赤」はない。
男の胸にみじめな有り様がつきつけられる。結いもしない髪は白布の上に流れて、額に掌を当てて俯く男を包んだ。
(時が、……戻った)
胸には戦いで負った傷はなく、疲労さえなかった。袖を通しているのは血みどろの鎧ではなく、清潔な寝間着だ。その鈍感な厚みには、己の意志の弱さと、決断を結実する力の乏しさが、まだ隠されていた。
男はそれらを、叫ぶこともなく、ただ無言のうちに深く、冷たく噛み、肺の奥へと消化しようとした。
「…………」
居住区での戦い、壊れ落ちる診療所、幼い弟妹のそばにいることを選んだ、その姉の瞳との一瞬の邂逅。とりたてて近づこうとしなかった庭園で、生存の放棄を嘆願され、断った。誰の手に落ちようと、紛れもない腕の中で咲いていた美しい花。それが彼女だ。
今やそれらの記憶は、棚の一端に押し込まれる裸身の本となった。二度と手に取って眺めることはできず、いつしか死文化していく。他の記憶と同じように。
記憶の本体がすなわち本であるとするならば、自分の棚には二度と新しい本が収まることはない。心はことごとく、それらを実感として捉えていた。皮肉を笑いたくなるが、部屋を満たす沈黙が重すぎてかなわない。
魔王は一切視線をあげることなく寝台から離れようとしたが、ただ縁に身を預けて座ったまま、重い腰をあげることはできなかった。この世に己だけが存在しているような静寂のなか、何かに折り合いをつけようとする。感情の正しさを見つけようとしていたのかも知れない。そうした機微を理解するには、まだ思考は耐えられていなかった。
「 」
音が、触れた。
――耳に入ったその音に、魔王は寝台を蹴って立ち上がる。
呆然と開いたままの口元からは、息を吸う音さえ漏れない。一点を凝視し、今聞いたばかりの音をもう一度捉えようと試みる。
(……俺を、呼んでいる)
肩をぶつけるようにして自室の扉を押し開けた。勢いに任せ開け放った扉が軋む音も置き去りに、人気のない廊下を大股で駆ける。自然と、足は立ち慣れた窓辺へと向かっていた。
重厚な石壁を穿つその窓は、上部が滑らかな半円の形をしており、見上げるほどに高く、縦に長い。傍らに人が佇んだところで、その影が足元を辛うじて埋めるに過ぎない。そしてここは、城内の中でもっとも自身の影を刻んだ場所でもあった。左右に分かれた分厚い木枠の扉は、外へと押し開かれ、縁取られた情景は木々のざわめきに溢れていた。
階下の中庭の、紅葉し、雪をかぶり、青葉を茂らせる大木の一群を見下ろすことは、永い人生における習慣となっていた。ここにいれば、あの木陰の長椅子を好んでいたものを見つけることもできた。
だが、窓から視線を落とした魔王は、その動きを止めた。
中庭の、いつもの景色のなかに、あるはずのない「異物」がある。
石の窓枠に手をつき、身を乗り出した。手の甲には筋が幾本か浮き上がり、動揺を伝えていた。見下ろす異物の正体は、わかっていた。すでにいかなる見地からしても、それが何であるか理解しながら、頭の中を表白するには、ある一点が不足していた。
かつて、何千回もの始まりの朝において、「それ」が存在していたことなど、ただの一度としてなかったのだ。一体何を意味するというのか。その結果を知り得るために、魔王は窓に足を掛け、そのまま中庭へと強引に降り立った。
冷たい石畳から草地に入る寸前、足を止める。口渇と鋭敏に打つ鼓動に、唇を舐めて細い息を吐く。
意を決し、緑のなかに突き刺さる「それ」へと歩を進めた。
微光をまとうその姿が、あの死闘の記憶を鮮烈に引き摺り出してくる。
ルカが携え、彼女のために一語も発するまでもなく守護していた――勇者の剣は、今なお苛烈にその存在を誇示していた。
まるで、庇護すべき主が、まだどこかで戦い続けていると告げるかのように。
(お前は王国にあるはずだ……)
速すぎる鼓動が言葉になる前に、剣は、己の意志で輝く銀の体を地面から引き上げていった。大木の囲む宙へと浮き上がると、陽光を弾いた。そのまま天空へと光の尾を引いて飛び去っていく。
北へ――考えるまでもない。王国の方角だった。
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正門を真っすぐあがってくる人影を見、門番は鼻孔を怒らせたが、隣にいる同僚が職務から逸脱しようとする男を宥めて、歩いてきた女に対して穏やかに語り掛けた。
膝を折り、槍を遠ざけ、若い女に柔い態度で応じたのは、正門の少し手前で止まった女が傾斜した地に立っていたということもあったが、その格好が城務めの侍女と似通い、男に傅くように俯いていたからだった。
肌に触れる白絹の衣、その上に重ねた紺碧の仕立て着には、金色の飾り糸で細やかな蔓の模様が縫い込まれている。まるで星が散る夜空のように。またその頭髪を覆って背中に垂れる薄織の白布は、身の清さを証明するかのようだった。まるで上級侍女のようだと、門番は口笛を吹きそうになる。その色が王国では好まれていない、魔族がまとう黒色であることは、女の顎の細さや唇に意識が割かれていた門番が気づくことはなかった。
「通用門はこちらではないよ、お嬢さん。城にはあがったことがないのか? 休憩をしていくなら、俺たちの宿舎まで案内するよ」
伏せられた顔や襟首の奥を覗き込もうとする視線に気づき、隣で苛立っていた同僚は「おい」と、あたかも自分たちの領域に女を招こうとする俗な企てに、早々にとって返した。女一人に、理由をつけてかかずらうことが耐えられなかった。
それを見て、残った男はより一層女の方に近づいた。あと一歩でもあれば、何か明確なたじろぎや駆け引きを得られるような気がしていた。
「それで、何をして欲しい?」
「門をお通しくださいますか」
「用件を教えてくれないとな。こっちも仕事をしなくちゃいけない」
女は考える素振りをみせた。坂の下からは今度こそ、豪奢な馬車が近づいてくる。先触れのきていた正客だ。仕事をする気にはなれなかった男は、他に割り込んで来られる前に、女の腕を掴んで、宿舎の方に引っ張ろうとした。
しかし、女は一歩も動かない。少し曲げられた肘に陽光が当たり、細い腕の輪郭を透かして見せている。手首は極端に細く、親指の腹で撫でた手のひらは白く吸い付くような肌だった。門番は、女が自らをこちらに明け渡してきたような甘い倒錯に囚われた。
だが、少し悲し気な声が門番の背中にあるものを見上げた。王城だ。
「……家に帰るなら、玄関から入らなければならない気がしたのです」
何を言われたかわからず、門番は怪訝な顔をした。
「な――?」
突然口の中が渇き、瞼が痙攣し始めた。がちがちと歯が鳴り、視界の端で明滅するものに気づく。空気がさかんに裂かれ、雷光が散る。見る間に女のそばに剣が立っていた。女はふりかかる青い火花をその瞳に映しながら、柄を握った手首を返す。さばき方は堂に入って、ただの女ではないことは知れたが、さらに門番は言葉を失った。
その手に収まっているのは、玉座にあるはずの国の宝剣であったのだ。
「国王と将軍にお伝えください。勇者が帰って来た、と―――」
その女の微笑みは泣いているようだったが、表情を消した時、男をぞっとさせた。ただ一人、戦いに来たようでも、孤独をさまよう子供のようでもあった。
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