9-25『一頭の羊』
城に漂う悲しみの源はルカただ一人というわけではない。ルカを見つめる男の顔が曇り、いつまでも晴れぬ悲しみを抱えていることに、補佐官の心もまた翳っていた。強いて笑えと言いたいわけではない。ただ、友のことが心配だった。
立場を越えた問いに、魔王は何も答えず、代わりに口端にほんの少しの微笑を乗せた。その場を立ち去っていく彼の背中を、補佐官とともに見送る。
「……想うなとはいいません……ただ、私は……貴方に貴方のことを大切にして欲しい、………それだけなのです……」
袖の下に隠れた拳が震えている。剥き出しの心に触れたルカは、目の奥が熱くなって、たまらず唇をきつく結んだ。そうしなければ、声をあげて泣きだしてしまうと思った。
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それからも、複数の場所、場面、「彼」の記憶といえる光景が、ルカのそばを通り過ぎていった。
遠ざかるように、あるいは間近に迫るように、記憶の情景は激しい渦となって巻き起こり、最後には靄となって消えた。
激しい雷鳴が轟く夜もあれば、白々とした夜明けもあった。短い芝が生い茂る庭で、子守女が朗らかに笑い、その前を無邪気に駆けていく子供たちを、遠くから眺める自分を見ていた。そして、どれほど夜が更けても眠れぬまま、何かに取り憑かれたように動き続ける自分の姿を見ることもあった。
弟妹を失った悲しみが、冷たさの果てに全身に覆いかぶさって、どうしようもないのだ。そこに境界はなく、遠く、時にはそばで寄り添う魔王もまた他ならぬ悲しみに包まれていた。肩を並べても、いつも「私」は去っていった。惜しさを抱えて残された「彼」を、幾度も眺め、ルカの心は次第に怖れを感じ始めた。
――この先に行ってはいけない
たどり着いたのは、深い森の中だった。
激しい雨が叩きつけ、雨雲の下で葉群れはどこも闇を孕んでいた。そこは木々の切れ目が円状に広がる空き地だった。重たい暗雲が天井となり、地面は泥の海と化している。多数の獣が争った形跡があり、泥の中に血が混じっていた。
そして、木の根が作る澱みの中に、人が横たわっていた。動かない背中に矢のように雨粒がかかる。私は葉陰のなかで身構えていた。それはいかにも、「私」だったからだ。
泥にまみれながら辿り着いた魔王は、剣を滑り落して、雫のしたたる目を瞬いた。周辺に散る獣の死体にぶつかりながら歩くと、人影のそばに膝をついた。倒れている女を抱き起し、その肩をおそるおそる揺さぶる。
腕の中の女は、すでに完全に事切れていた。全身傷だらけで、剣を握りしめていた手は固まり始めていた。
自分の死に様を見たルカは、茂みの中で蒼褪めていた。どうして死を選んだのか、自分のことなのにわからなかった。けれど、きっと生き急ぐようにして、自ら死へと飛び込んでいったのだ。悲しみに潰されてしまう気持ちは、痛いほど分かっていた。
雨は「私」の体から血を洗い流し、「彼」の体から熱を奪っていく。
魔王は、冷たい体を強く、壊れんばかりに抱きしめている。
「置いていかないでくれ……」
肩口から顔をあげた彼は、「私」の頬にかかる髪を除け、指先で輪郭を撫でると、震えた手を握りしめた。
それは、拒絶がほとばしる合図だった。
「……なぜ、俺は………………こんなにも、役に立たない……お前を……もっと」
泥を噛むような掠れた声が、雨のなかに消えていく。彼は溢れだす後悔を引き裂くように、泥に汚れた指先で自らの髪をかきむしった。かけるべきだった優しい言葉も、伝えるべきだった本心も、何ひとつ選べぬまま見守るだけだった己の不甲斐なさを、ただ呪うように頭を垂れる。
「……こんな、こと……望んでない……望んでいない!」
慟哭する魔王の頭上に、まばゆい光が集まり始めた。それは清らかな光の帯などではなく、痛々しい棘の集合体だった。蠢く棘は、やがて王冠の形へと編み上げられていく。
編み上がった王冠から、血の色をした赤い蔓が幾筋も広がり、降り注ぐ雨の軌跡や、風に騒ぐ葉群れ、周辺に散る死体までも、抗えぬ力でその場へ縫い留めていった。
「私」が息絶えてしまったこの結末を、何ひとつ先へ進ませぬように、――彼はすべてを深い檻の中に閉じ込めていく。
赤い棘は空へと達し、やがてあの燃えるような、一面の赤い空が作り出された。
「私も――――望んでなんていなかった」
涙を天に降らせながら、ルカの体は白い靄のなかに落ちていく。
ルカは記憶から放たれた勢いで、ひたすら宙を滑っていた。どこへ行きつくかわからない恐怖はもうなかった。ただ彼に、もう見えなくなってしまった彼に、伝えなければならないと思った。けれど、声は誰にも届かない。
新しい記憶がやってくる。それはルカの記憶の中にみずみずしく残る、甘い囁きだった。




