9-24『一頭の羊』
ルカは、それが誰の声であるか、すぐに悟った。
それと同時に、激しい嫌悪が胸の奥からせり上がる。なんと醜く、なんと情けない声だろう。他者に守られ、ただ縋ることしかできないあの声は、今のルカにとって、最も忌むべきものだった。
その女の体は冷たい石畳に沈み込み、かろうじて立てた片肘だけで、崩れそうな上体を支えていた。立ち上がろうとして、立ち上がれない。剣を握っていたはずの手は赤黒い血にまみれ、乱れた髪が顔に張りついて、その表情を窺い知るすべはなかった。
だが、見たくもなかった。ルカの肩は、呼吸のたびに大きく揺れていた。
二人の自分が――同じように荒い息を吐いていた。
自身の無事を願う切実な叫びに、ただ戦うことだけを求めて研ぎ澄まされた魔王の視線が、ふいに緩んだ。
魔王の唇が、小さく弧を描く。笑ったのだ。
ルカは、その横顔を、瞬きも忘れて見つめ続けた。
魔王は、ただ真っ直ぐに将軍へと向かいながら、声を落とした。
「構うな……お前の為ならいいんだ」
将軍に聞かせるためではない。ただ地に伏せる女を安心させるように、低く落とされた言葉。
それは、ただ息を詰まらせ戸惑う私へ与えられたものだった。
(あぁ……いかないで……――――)
ルカの体は真後ろに倒れていく。まるで、足先を乗せるだけの小さな場所がとうとう失われてしまったかのようだった。城壁の光景は歪み、白い靄に覆われてかすんでいった。
彼は最後に走っていった。また、背中を見せられ、ルカはもう一滴も涙を流せなかった。ただ、喉の奥が引き絞られるようにして胸が詰まって、胸の上あたりをきつく握りしめた。衣服に皺がつき、そこにはない物を握りしめる。母はよく胸元の鍵を握っていた。
(――どこまで……役に立たないの……)
記憶の留め金がまた一つ外れていく。その金属の音に弾き出され、靄の中にまた別の場所が現れ始めた。
城内の一角。廊下は中庭で途切れ、そこに大木の一群があった。円形の広場を囲った木々は、ひび割れた樹皮や垂れ下がった球果を豊かに実らせている。
穏やかな午後だった。尖塔の突端から、鳥が、青い空を横切っていった。
彼は静かに立っていた。戦いの気配はなく、見慣れた鎧姿で窓辺に佇み、階下を見下ろしていた。
肩を並べて立っていたルカは、彼の視線の先へと目をやった。
中庭の大木は紅葉し、はらはらと黄色い葉の絨毯を広げていた。城の奥に位置する中庭は閑散としていて、誰の気配もない。大樹の前に孤立して置かれた長椅子があり、そこに「私」が座っていた。
「私」は、顔を俯けたまま、じっと足先を見ていた。葉の雨がいくら肌を撫でても、ただ雪に隠される景色のように、埋もれることを選んでいた。
魔王を見れば、長髪に隠された横顔から高い鼻が覗くだけだった。おそらく、何かを想っているのだろう。聞いてみたいと、ルカは思った。
「陛下」
補佐官の声がした。廊下の奥からやってきた彼は、片眼鏡の奥にやや曖昧な瞳を隠していた。少し距離を取って止まると、会釈をする。魔王は礼を返さず、かすかに首を傾げる。ゆるく流れた髪に儚さがあった。面差しを見つめる補佐官が、強く憂慮を浮かべていることは、ルカの目にも明らかだった。
彼は口を開く前に、視線を落とした。伝えるべき優先順位を測り直すように、その薄い唇が小さく引き結ばれる。多くの問いを喉の奥に留め、彼は静かに息を吸った。言い出しにくいことを切り出す特有の空気をまとっていた。それでも彼は口火を切る。そうして冷淡を装うところが彼の優しさなのだと、ルカは知っている。
「……薬草園にある植物をすべて試しましたが、未だ誰一人として、効果の表れた患者はいません。条件を変えて、もう一巡するように命じました」
そこで言葉を切り、補佐官は片眼鏡の奥から、じっと主君の背中を見つめた。
「……本当に、葬儀をしなくてもよろしいのですか」
その言葉に、ルカの胸がどくりと跳ねる。口の中が渇き、頭の中で言葉が反芻するにつれて、こめかみがじわりと汗ばんだ。
魔王は小さく頭を振る。
「あいつは望んでいないだろう……」
「二人は……?」
「静かな場所に埋葬したと言っていた。ネリテの花群れのそばだ……誰にも邪魔されたくはないと」
「……アルバの好きだった花ですね」
耳を疑った。自分の弟と妹が、すでにこの世を去っている。その残酷な事実に、ルカは驚愕のあまり言葉を失い、ただ立ち尽くした。
補佐官の口から耐えかねたような吐息が漏れた。それはまるで、深い水の底で辛うじて息を継ぐかのような、重みを持った呼吸だった。
「身内二人を同時に亡くしたのです。武官たちからも彼女を心配する声があがっておりますが……本人がああも周囲を拒絶していては、どうあっても手を差し伸べようがない、と。せめて、彼女自身が安らぎを見つけられるといいのですが……」
「今はそっとしておくしかない。必要なのは時間だ……」
補佐官の視線が、中庭にいるルカから魔王へと向けられる。彼はひどく考え込んだ様子の魔王をじっと窺い、「貴方様は……?」と、主の心を問うように声を潜めた。




