9-23『一頭の羊』
二人の男の足音が遠ざかる。ただ一人残されたルカは、首を垂れて座していることしかできない。そばを去る前、武官長はルカの肩に手を置いた。彼の皮の厚い手には、激しい時代を生きてきた苦労がおのずと表れていた。多くを語り合い、剣を交えてきたのだろう。思えば、彼らの剣には同じ癖があった。
張りつめていたものが解けて、千切れていく。意識がふっと遠のき、吸い寄せられるように首が後ろへ傾ぐ。空があった。
今日を渡っていく雲には同じ形がない。もう二度と目にすることのない形だ。
「…………」
こうして時間を与えてくれた配慮は、彼らの歴史の中の、たぎりたつ怨嗟や苦悩の上にのしかかっていたはずだ。彼はそうした決断のあと、何をしろとも言わなかった。重い手が離れていくときに、何かを残された気がしていた。優しさに、いっそう息詰まると思うことさえ、罪だ。
彼は言った。「守り、勝ち得たもの」だと。
(……私に、意味なんて、なかった…………)
それはきっと守られた方が決めることではない。だけれど、胸の奥底から生じる疑問が膨れ上がり、押し上げられた皮膚を真っ黒に染めて、影が全身にまとわりついて止まない。彼らの心情について立ち入って話すことはできない。その代わり、自分自身の価値は決めることができる。
日が昇り、周囲は明るくなっている。新しい朝が始まり、その中には虹のような希望が詰まっている。だが、自分だけが未だ余光のなかにあった。たった一人、昨日のなかに取り残されていた。
昨日と今日とが混ざり合い、何が起こったか思い出すことができなくなっていた。呆然と腰を落ち着けたまま、長い時間、あるいは瞬きの短い一瞬、沈黙という靄の中を手探りで進む。頭の中には何もなく、彷徨う足場は端から崩れていく。次第に追い詰められ、足先を乗せるだけの小さな場所しかなくなってしまった。もうどこにも行けない。ならば、飛び込んでしまえばいい。どこでもいい、真っ逆さまに落ちていきたかった。
けれど、できない。下を向けば、彼がいる。
彼こそが余光にたった一人置き去りにされてゆく人だった。いかに一つ一つ悔いても、彼はもう、彼方に行ってしまった。
(む、くいを……私は、なにも……あげられない……)
涙が静かに流れ、目を閉じる。暗闇の中に身を投じようと決めても、瞼の裏は眩かった。影にまみれても、一点の曇りもない清らかな光があふれ出ていた。
―――剣が、煌めいていた。
十字の剣から放たれた眩い光がすべてを塗り潰し、ルカはたまらず手の甲で視界を覆う。
光の波が引き、恐る恐る瞼を開けたとき、胸の動悸に首を素早く振った。目の前にあったはずの魔王の体は消え、石畳を穿つ剣さえもなかった。自分の無防御な体に恐れを感じて、膝を立てて城壁の縁に身を寄せる。鼻腔をついたのが煤と血の匂いだったからだ。
「ここ、は……」
両手で地面を擦ってみると、細い通路に敷き詰められた荒い石の質感が返った。幾度か足を踏み入れたことがある、魔王城の全景を一望できる、高く険しい城壁の上だった。
呼吸を落ち着けるために、両手を見つめる。衣服の破れも、肌に刻まれた生々しい傷も、戦いのあとのものだった。壁から頭を出して、庭園区に目を凝らせば、整然と並ぶ石垣や噴水の水柱が見えた。何一つ壊されておらず、居住区の方にも戦いの痕はない。
はじめ、ありもしないものを見ているのかと疑った。だが、天を仰いだルカは、さらに目を見開いた。
そこには燃えるような赤色の空が広がっていた。
その毒々しい色の中で、二つの影が交差していた。激しく火花を散らし、剣を結びあう二つの影が降りてくる。全貌が見えた。魔王と、将軍だった。
「魔王が勇者をかばうか!」
将軍の嘲笑が響き、直後、耳を引き裂くような剣撃が鼓膜を叩いた。重剣を真っ向から弾き返した魔王の鎧が、悲痛な音を立てて軋む。
一向に動じず、厳粛さと忌まわしさの渦中で戦う彼らは、忽然と現れたルカに気づきもしなかった。ルカは再び自分を見た。
震える指先も、口の中にたまる唾も、本物だった。けれど、はりつめた目の先、風に流された一枚の枯葉が、ルカの膝の中を通り過ぎていった。
銀髪をたゆわせ、魔王は大きく後退した。片腕を庇う体は傾ぎ、影の中に絶え間なく鮮血が滴り落ちていく。
直剣の切っ先は揺れ、足は血湿りの床に踏みとどまっている。ルカの目には彼はもう気力も体力も残り少ないように見えた。にもかかわらず、魔王は、不敵に笑う将軍の姿だけを真っ直ぐに見据えて離さない。
彼は一心に、次に放たれる剣先の角度を、重心の位置を、踏み込む足を読もうとしていた。
(どうして……どうして逃げないの)
――何が、彼をそこまで、駆り立てているのだろう
「お願い……逃げて!」
濃い影の中から、か細い絶叫が響いた。
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