9-22『一頭の羊』
武官長が手を伸ばす先、兵士が剣を抜いた。一語も発しない人間に向けて、憎悪に滾る目が向けられる。怨念はひとつの荒い足音となり、低く構えた剣先が、石畳に弾かれて鋭く鳴った。兵士は声をあげなかった。相手への憎悪を言葉にすれば、正義から熱が引きはがされて、自分が無関係であると曝されてしまうと怖れていた。
兵士の足は、転がっていた苛烈な赤い実を潰して止まった。熟した実から、はなはだ苦い液が流れ出て、靴にこびるようにまつわる。
「……ご、めん、なさい……」
にじみ出る声は煮立っていた。
怒りに塞がれていた兵士は、剣を取り落としそうになった。女がへたり込む場所は、そこだけが墓地のように湿っている。女だからと労わる気はない。ないが、頭から水を被せられたような気がした。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
女は何もかも押し退けて、謝罪に熱中した。そばに抜剣した兵士が立っていようと、兵士がいかに力んでみたところで、構うことはなかった。兵士もまた、どうすることもできなかった。所詮悔いている者の前では、何をすることもできない。
ルカは、勇者の剣を握りしめたまま、地面に額を擦りつけて咽び泣いた。視界は涙で歪み、自分が吐き出す嗚咽にえずいて、嘔吐しきると、生気のない目で空を見上げた。
操られてさえ、いなければ、
ここにさえ、来なければ、
生まれてさえ、こなければ――彼はまだ、
見上げる空が、ゆらめいている。
無際限な広がりの中に、融けていければ良かった。歯噛みをした口元に、新しい涙が過ぎる。
やがて首を傾けたルカは、口の中で何かを言った。そばに立っていた兵士は後ずさりした。このもはや得体の知れない、しかし前は人間だったはずの女を見ながら絶句していた。
生の悲しみとなった女は剣の柄を逆手に握りなおすと、その切っ先を己の薄い腹部へと突き立てようとした。女の顔に浮かんでいる一定の表情は、敏感な心の底を映した鏡のようになっていて、柄を握りこむしなった指先も、死に忠実に向かう決意が乗る眉も、ことごとく美しかった。女自身が、そうした美しさから逃れたがっているように思えた。
風が出てきていた。
首筋まで汗を淋漓と流していた補佐官は嫌悪していた。振り返りたくもなかった。そうしてしまえば、この降り積もった苦しみが、みんな女のものになってしまうと思った。
いまこの目で、他のことを語りたくなかった。頑として、瞼の動かぬ男の顔をすみずみまで眺め、一心に胸を押さえた。この有り様を、滑稽と笑いたければ笑うがいいとさえ思っていた。陛下を連れて帰る。恩人を、主を、そして幼き日より共に歩んできた友人を連れて帰る。その気持ちだけが男を支えていた。
心臓が細動してはいないか。魔王の胸に耳を寄せた補佐官は、倒した視線の先に動くものを見た。はっと顔をあげる。
魔王の顔には銀の長い髪がかかり、瞼に張りついている。睫毛は震えておらず、瞼も動いていない。けれど、奇跡か、と補佐官が口を開けずにいられなかったのは、魔王の腕が持ち上がるのを見たからだった。
その手は、まっすぐに、空に向かって伸ばされている。階段状に折れた指の中で、人差し指だけが天に向かっていた。湾曲して、ほとんど意味をなさず張りついていた腕輪が割れて、石畳の上に転がった。
――誰かが、あっと声をあげた。
ルカの腹部にあてがわれていた剣が、彼女の手をすり抜けて、ひとりでに宙を飛んだ。剣はそのまま魔王の手のひらの隙間に入り込み、石畳に斜に突き刺さった。まるで「主人」の掌に帰ったようだった。
一つの兆候も見逃さないように、周囲は魔王の姿を凝視している。しかし、剣を得ても魔王は動かない。ただ、冷え切った血に塗れた指先が、その柄に、確かに握りしめていた。
どよめきが生まれる。その間に、呆然と涙を散らすルカを武官長の大きな手が拾い上げた。へたり込んだままのルカは、腰を掴まれ、武官長のつむじを見下ろした。やめてと言うことはできなかった。口元の下がった厳しい顔が見えて、自責の熱が痛んで、細い体と心がおののいた。
「――来ないでくださいッ!!」
近づいてくる二人の気配に、耐えきれず補佐官は振り返った。目は血走り、手で大きく空を払う。
しかし、武官長は補佐官の怒声を流し、魔王の寄り添わせるようにルカを下ろした。そのまま補佐官の肩を掴み、静かに親指を押し込んだ。少しの力で若い男の膝は浮き上がった。抵抗しかけて自省する生まじめな男の体が、勇者の剣で傷つかぬように離してやった。
「どうして、人間の味方なんかをするのです!」
武官長は、男の涙に目を細めたあと、ゆっくりと魔王を見下ろした。愛おし気な、父親のような顔をしていた。魂のない抜殻の体を一瞥する。別れはそれで充分だった。
「イリアス、お前はもう子供ではない」
「そうです。その通りですよ!」
「ならば、わかれ。男が最後まで守り、そして勝ち得たのだ。別れを惜しませてやれ」
補佐官の、いまや誰にも帰属しない苦しみが、鋭い視線となってルカを貫いていった。
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