9-21『一頭の羊』
踏みにじられた庭園は、二人の男の戦場にしては最も美しく、大そう手狭だ。
あそこでは婚約式を、向こうでは長椅子に腰かけ、山頂の向こう側から顔を出す朝日や、希薄な雲の形を眺めたこともあった。庭園で時を過ごすなど無駄だ、それには違いなかったが、いかにも体躯の不釣り合いな、唯一己を非難することのできる妻との記憶は、武官長の額に憐れみを浮かばせた。
武官長は将軍の目の向かうところへ目を向けた。黒い鎧姿の男が、眠るように倒れている。胸当ては砕け、その下の装束が裂けている。蒼白で不愛想な顔立ちに長い髪がかかり、もしも酒でも飲んでいれば酩酊の作用で、今にも起き上がるかも知れなかった。だが、そうはならない。石畳に放り出された指先は固まり、足先はそろわず、ただ不条理を映している。横切る砂塵が視界を覆う。ところどころ花弁が散って、悲しみに沈む男の顔を撫でていった。
背後で放心している女もまた、一言も発しない。それは最も危惧していた空想だった。いま悲しみは、人の形になって断面を見せている。女の顔を覗き込まずとも、はりつめた目に何が映っているかなどわかっていた。耳鳴りがする。自分がいかに「遅かった」という事実が、主張し始めていた。
武官長は柄を握る手に力を込める。自身の得物へと戦意を注ぐためだ。
男には、やらねばならないことがある。
「良い庭だった。勝手に拝見してすまない」
人間の男が言った。対面しているが、対岸を見るようだった。横たわる歴史が、過度に磨き上げられた軽蔑を結ぶ。
「構わん。餌箱の数は足りたか?」
「足りていたとも。おかげで、念願叶って、仕留められるだけの距離が測れた」
武官長のこめかみにさざ波が走る。そのとき、遠くから高く鋭い音が響いた。鏑矢だ。立て続けに三射、空を引き裂いた音に、将軍は忌々し気に舌打ちをした。不本意極まりない表情が全面に押し出されるが、姿はやや後ろ向きになり、笑む口元をみせた。
「薔薇は圧し潰された時に最も香る。お前の手では、容易く破いてしまうだろう。しかし破れない程度に握れば、瑞々しい拒絶が弾き返そうとしてくる」
「何が言いたい」
武官長が重剣を構え直し、地鳴りのような声で問う。将軍はただ、己の手のひらを掲げた。
「剣で肉をついたとき、感触が手を弾き返そうとしてきた。お前たちの脆弱な王の、最後の感触だ」
男が、握り拳を捻りながら前に突き出した。肉を抉る動きと、その口元から覗いた白い歯のきらめきが、武官長の直感を苛立たせた。だが、傍目から見て、それは合図だった。しんとしていた地面に、複数の油壷が投下される。石畳や倒れた木々に黒い油が付着した。続けて飛来した火矢が命中し、庭園のいたるところで炎があがった。
武官長は構わずに火柱の中へと飛び込んだが、すでに手遅れだった。立ち上る炎と黒煙の向こう側、男の姿は、まるで火に守られるようにして完全に掻き消えていた。
これで奴の執着が晴れたとは到底思えない。国に戻り、さらに強大な軍勢を引き連れて戻ってくる前触れか、あるいは、より陰湿な企ての始まりか。武官長の渋い顔に、深い懸念の皺が刻まれる。
「陛下! お目覚めください、陛下! 誰か、医官を! 急いで医官を呼んでくれ!」
補佐官が、横たわる魔王の元へ必死の形相で辿り着いていた。
指呼することもできず、外套や鎧、帯の類をほどいて、疾病の影をおびただしく乗せた体を暴いていく。
魔王の体に生気が戻るのを祈るように、止血と胸の圧迫を始めた。黒い羽織は翼のように広がり、地面ににじむ血のようにも見えた。
「起きてください! 頼みます、起きてください……!」
痛ましい声だった。
王に仕えるべく育てられた男の無念さを察せられて、武官長は剣を背中に納めると、魔王にのめりこむように座す補佐官の背に向かった。
これ以上、望みのない体を潰して一体何になるだろう、そう言ってやるために補佐官を引きはがすことが、老体の役目だと思った。
補佐官が引き連れてきた兵士のほとんどは膝をつき、その場でうずくまっていた。魔王の骸だけを一心に見て、慟哭するほどの熱もなく衝撃を受けている。補佐官の為に動く者が少ないことからも、彼らは理解しているのだろう。眼前の死を、学ぶしかないということを。
敬愛した男の存在がまた一つ、記憶の内に貯えられていく。それこそが滔々たる生死の流れだ。種族にも、運命にも左右されない唯一公平なものなのだ。
補佐官の手が、血を掻き、上衣を押しつけて傷口を封じる。うつむいた項に、死を学ぼうという意思は微塵もなかった。
兵士の中にも同じように、ただあらぬ方を見る者もいた。その者が見ていたのは、魔王でも、死でもなく――
「ならん――!」




