9-20『一頭の羊』
「その紋、――」
「薔薇を潰している」
「薔薇を? それはまた、どうして?」
首を傾げた女を硝子越しに見やり、男は溜息を吐いた。
「薔薇は圧し潰された時に最も香る……この鉄手甲は、騎士の手だ。国民に尽くすため、騎士は自らの手で、己の幸福や安寧を握り潰し、戦場に赴く」
「それは……」
声色から、さらなる問いの気配を察知し、男は先に答えた。
「他者の為に尽くせ、ということだ」
「あぁ。であれば、私のようなものは役に立ちそうにもありませんね」
「お前の役目は、丈夫な子を産むことだけだ」
言葉も声色も冷徹だった。しかし、女は救われたように顔を跳ね上げると、「はい」と、うっとりと頷いた。自らの存在意義をその一言に捧げるように。
「名前は、決めてくださいました?」
「ルイ、と名付ける」
「まぁ、男の子のような名前……」
「男だ」
男は結局、一度も振り向かなかった。
二人を、そして見覚えのある部屋を、端から眺めていたルカは、室内を埋めている穏やかさのなかに別のものを見出していた。後ずさりした背が壁につく。ざり、と、指先に感じたもの。煤だ。指の腹でなぞるこの感覚を、覚えている。床板の隙間に詰まる灰も、漏水で黒く腐食した床板も。
――ここはまさに、ルカの家だった。
幼い頃を過ごした、あの狭い部屋。寝台にいるのは――母だ。
(お腹の子供は――、私……?)
母を見つめたまま瞬きを繰り返したルカは、一転して真下を向いた。胸が激しく脈を打ち始め、首筋がどくどくと跳ね上がった。
この光景はいつわりではないのかと疑う。喉元に残るあの強烈な痛覚は本物だ。ともすると、すでに将軍の手に掛かり死んでいるのかも知れなかった。
「必要なものはあるか」
「また、顔を見せてください」
「物はないかと聞いている」
「ありません」
沈黙――、母は含み笑いをして、また唄い始めた。子守唄だった。
視界の端に霧のような光がこもり、何もかもが霞み始めた。消えかかる部屋の中で、あの棚を見た。母の大切なものがしまわれていた棚には、まだ鍵がついていない。母はきっと十字の鍵を身につけていない。
男は部屋を出ていった。廊下に待機していた従者が何か言っている。床板の軋みは、男たちの行方を教えた。すぐ近くで止まった。隣の部屋だ。扉が叩かれ、「はい」と声がした。薄い壁は、人の声を鮮明に聞かせた。
「来てくださるのを、心待ちにしておりました。この子も、会いたいと言ってきかないのですよ。ほら、お父様よ。ご挨拶して――――ルイ」
扉がしまる。人の声がこもった代わりに、母の唄声が大きくなった。薄い唇からこぼれだした涙に、声はよろめきこそすれ、止まることはなかった。
うずくまり、腹を押さえた母が、決してルカには見せなかった苦しみをうめいた。
「男の子……男の子を産まなきゃ……ねぇ、男の子よね……?」
腹を撫でる手が、自分の首筋にあてがわれているような気がした。
――『死んでしまえ』
おびただしい感情の濁流のなかで、男の執念が鼓膜を打つ。その瞬間、世界は再び裏返った。
四方にある瓦礫にさしのべられたややきつい日差しに、視界が真っ白になって、将軍が見下ろしているのは、死に向かうルカの力無き姿勢だけであった。
喉を通れない空気を震わせ、何か呻こうとするたびに、男の中の感情が変化していった。微風に揺らめく花を手折るように細い首に力を込めると、腕にルカの痙攣が伝播していく。
そのとき、眼前から風が吹いた。ごう、と大気を引き裂く。それは咆哮だった。
顔を上げると、飛びかかってきた男が巨木を思わせる重剣を振るった。左の脇腹を、瞳がつかれるほどに凝視する。機を捉えて反撃する暇すらなく、ただ視線を凝らすことしかできない。――次の瞬間、剣が腹を潰し、骨を砕いていた。男は喜びの声をあげることなく、両手に気根をつどらせる。咄嗟に腕で防いだものの、剣の勢いは衰えない。風をまとって、さらに疾走した剣は、鎧ごと肉を深く抉り、空を切るまで一気に振り切られた。
重剣から炸裂した衝撃波が、足元の芝生を土ごと吹き飛ばした。将軍の指先はルカの首から離れ、ずるりと地面に崩れたルカの前に、男が腰を据えて立った。毛皮の外套を翻し、壁のように分厚い背中が立ち塞がる。
「わしの一撃で砕けん物が、まだあるとはな……」
猛々しい男、武官長が、低く濁った声で笑った。筋骨隆々の巨躯が、将軍に強烈な圧を与える。衝撃をまともに受けた将軍の鎧には亀裂が走り、息をついた瞬間に、内臓の損傷を悟った。




