9-19『一頭の羊』
背後からの殺気に、将軍は返り血を浴びた体を鋭く反転させ、眼前に迫る刃を真っ向からはじき返した。ルカは強引に刃を噛み合わせ、力で押し潰そうとする。鍔迫り合いの最中、歯を食いしばり、嵐のように髪を逆立てるルカの手だけが激しく震えていた。
――――何故殺した!
言葉にならない叫びに思考が明滅する。
男の腕は岩盤のように微動だにしない。彼は決して声をださなかった。ぶつけた殺意が返ってくる。怒りが方向を変えていく。
何故!――ルカは、繰り返される問いに自ら答えを出した。
(私が弱いからだ――!)
守るどころか、私はただ、そこにいるだけで他人を巻き込み、狂わせ、破滅させる。私が物を考えていれば、この人は死なずに済んだ。私が、私がいなければ――
(あぁ……!)
ルカは剣に全力を注ぎながら、目を細めて、涙を散らした。
将軍は、ルカの力をわずかに身をずらすことで受け流した。支えを失ったルカの体が、前方へ大きくつんのめる。隙を晒したその背中へ、将軍は反転させた柄頭を、鉄槌のごとく叩き込んだ。
あぎ、と喉が鳴った。衝撃に胸を反らしたルカは、足元を狂わせて崩れる。だが、執念だけで体勢を立て直し、よろめきながら振り返った――しかし、その視界を埋めたのは、すでに目の前まで迫っていた将軍の強固な拳だった。
――暗転。
凄まじい衝撃とともに、激しく叩きつけられたルカの体は、土煙のなかに倒れた。将軍は拳を繰り出した姿勢のまま、低く腰を落として凝固していた。
ゆっくりと拳を持ち上げると、ただれた皮膚に付着した砂礫が虚しくこぼれ落ちる。火傷直後の、生々しく焼けた皮膚に、引きちぎられたルカの頭髪がへばりついている。眼下には、頬を地面につけ、沈黙する女の頭部がある。
顎に散乱する唾液がてらてらと光り、そこへ拳から滴った血が落ちた。光を受ける透明な水面は、しかしその赤を拒んだ。粘性のある唾液の中で、血は泡の一つに吸い込まれ、攪拌されることはなかった。ただ不溶の色彩を見下ろす男の姿は、彫像のように重く、厚みがあった。
将軍の手がルカの細い首を掴み、喉笛を強固に圧迫したまま、強引にその上半身を持ち上げた。
「――ぁ、が、……」
気道が塞がり、ほんの数秒で視界が壊れ始める。視野の輪郭は急激に白い靄に侵食され、見える範囲は、自分を見下ろす男の、ただれた皮膚だけになった。
男はルカの首を無心で締め続ける。荒く息づいていた胸が止まり、首のなだらかな皮膚は皺で埋め尽くされる。将軍の目は、痙攣するルカをじっと見守っていた。だが、ルカ自身に瞳を凝らしているのではない。
この手で、醜く、女の顔を歪ませることに、意味があった。
ルカは最後の力を振り絞って、将軍の太い腕に両手で触れた。
触れた肌に目を苛立たせた男は、白髪をたゆたわせ、こう吐き捨てた。
「死んでしまえ」
視界は光に包まれていく。
-
――――瞬く。
巨大な扉を開けてどこかに入ったような気がした。光を越えた先、視界に広がっていたのは、見覚えのある、ひどく狭苦しい部屋だった。
机と寝台、棚と水場――最低限の生活が詰め込まれたその小部屋の寝台に、一人の身重の女が上半身だけを起こして横たわっている。悪阻が重いのだろう。蓋つきの汚物入れと、唾液で湿った手巾が使い古された卓の上に置いてあった。まともに食事も受け付けていない痩せ細った体で、ただ膨らんだ腹だけを撫でている。
女性から感じられるのは、凄惨と衰弱、そして生命だった。
窓辺には、鎧をまとった男が立っている。葉群れから射しこむ柔い日差しを浴びて、幾つもの傷跡が白く輝いていた。
男は白髪の混ざり始めた頭髪を後ろに撫でつけて、脂気のある額には眉間の皺がひときわ目立っていた。兜を脇に抱えたその佇まいは、彫像のように重く、厚い。
女は、素朴な唄をうたい終えると、日光の及んでいる足元や壁から、段々と視線をあげて、男の方を見ようとした。顔は壁の方へ残して、目だけを送ろうとしている。頬にかかった髪をさりげなく指で払い、つつましげな目は結局退かせた。唇を赤い舌がちろりと舐める。まるで、その人そのものが唄のようだった。
ややあって、黙ったままの男の背に、けんめいに紡いだ声がかけられた。
「その紋様には、どのような意味があるのでしょう」
男の外套に縫い付けられている紋章には、盾の形をした枠の中に、鋼の手甲で覆われた拳が、五枚の花弁を持つ野薔薇を圧し潰しているさまが描かれている。
脈絡のない問いに男は沈黙しているが、いささか複雑な静寂を、女はまだ楽しんでいた。




