9-18『一頭の羊』
剣先が、沈み込む。
銀色に光る刃は、魔王の肩当ての下、生の肌に深く突き刺さった。かくて不快な感情に捕らえられた魔王は、そこまで耐えてきた体を傾け、砕けて半開きとなっていた鎧と、傷だらけの体の上にルカを招いた。
足をすさって、剣を引き抜こうとしたルカは、将軍による魔王殲滅の命令を忠実に達成しようとしている。だが、魔王自身に引き止められ、剣が抜けないと知ると再び押し込み始める。咽喉をせり上がってきた血が、肺の損傷を教え、ルカは顔に血を浴びる。柄を握る手が滑り、男の体の上で必死に踏ん張ろうともがくその姿は、あまりにも密に重なり合い、恐ろしいほどの生々しさを孕んで二人の境界を無くしていく。
「もっと、ちからを、……いれろ……心臓の、……ばしょまで、だ……」
柄を持つ手に己の手を重ねた魔王は、銀髪の波の向こうで、華やかに笑った。押し込む剣が微動しなくなると、内臓を覆う骨が、決然たる拒絶を伝える。魔王は、自身の胸を貫く剣を軽く持ち上げ、先端の方向を変えると、また柔らかい肉に埋めた。心臓へ近づいていくごとに、魔王の胸は開かれていく。
自らの胸を開き、心臓を掴み出す。それは常軌を逸した、あまりにも優美で残酷な、自死の儀式だった。
魔王の顔のすぐそばには、ルカの顔がある。立ち上がれもせず、魔王の上でほしいままに動かされているルカは、男の前で唯一動かせる唇を震わせた。
「――――わ た し、 こ ろ、し て」
体という檻に閉じ込められた感情が、涙となって目に膜を張る。切っ先が心臓を破る瞬間まで、ルカの意志によらず、体は勝手に動いていく。内側で、どれほどの拒絶をしているだろう。つくづく自身に嫌気がさしているだろうか。言葉にならない叫びで一杯になっていることは、想像に容易い。
張り裂けんばかりの絶望をその至近距離で受け止めた魔王は、愛おしげに口端をかすかに吊り上げた。
魔王は徐々に心臓に寄っていく刃の向こうに、いっそ毒々しいほど涙をためる目を見た。子供のような目だと思った。ずっと、変わらないものだった。
「……お前の為なら」
耳たぶに触れた声はやさしく、誰の心も柔和にする力があった。痛めつける為でも、罵る為でもなく。人と人とは、そうあるべきだった。
死を前にした純粋な言葉を、互いに手向けさせるわけにはいかないと、余韻を切り裂く男がいた。
いつの間にか至近に立っていた将軍は、魔王の胸に深く埋まった勇者の剣へと、容赦なくその手を伸ばした。
引き抜こうと柄を握りしめた瞬間、悍ましいまでの拒絶反応が空間を擦過する。
剣から迸ったのは、雷霆のごとき紫電だった。将軍の革手袋は一瞬にして煤となって弾け飛ぶ。剥き出しになった皮膚は見る影もなくただれ、白煙を上げた。
だが、将軍は眉ひとつ動かさない。ただれた肉で柄を握り潰したまま、力任せに、魔王の肉体を固定していたその剣を強引に引き抜いた。
煮えたぎる憎悪のままに、ただれた手で魔王へと剣を振り下ろす。
すでに瀕死であった魔王の身体は、その決定的な一撃を受け、絶命した。
「――――」
魔王の体の上に突っ伏したまま、ルカは呆然と瞬きを繰り返した。下されていた殺意の行き場が失われ、術式に仕込まれた拘束力が衰えていく。
返り血に視界が染まり、濡れた手で何度も顔を拭う。その動作は生に結びついているもので、一切濾過されていない。やがて唇についた血をなぞった。まるで、鏡も見ずに口紅を引くような、指の動きだった。
血を拭い終え、顔から指を離す。ルカは自身の掌の赤さに呆然とし、指を軽く折り曲げた。細い手皺を際立たせるそれは、どこからやってきたものか。
その血の主を確かめるように、ルカはそっと、魔王の胸の傷口に両手を置いた。
まだ、あたたかかった。
どくり、とも言わないその肉に、熱だけが置き去りになっていた。
「……ぁ、……………ぁ、あ、……あ…!」
ルカの胸奥から、雨垂れの絶叫がせり上がる。
将軍は肉から剣を引き抜くと、まるで汚物でも払うかのように、用済みの勇者の剣を床へ投げ捨てた。そのまま、遺骸に背を向けて歩き出している。
ルカは床の剣をひったくるように握り締めると、背を向けて去ろうとする将軍へ、猛然と突っ込んでいった。
有無を言わせず首と胴を断つことは、心を凍らせた女には容易いことだった。あらゆる感情から身を守ってきた彼女であるなら、いま、そのすべてを捨て去ることもできた。魔王の死に声をあげて泣きながら、遺骸に縋りつくということは、今のルカにはあり得よう筈もなかった。




