9-17『一頭の羊』
「――なぜ、応戦なされない…!」
歯がゆさに叫びそうになる口を無理やり閉じる。
魔王と戦っているのは、あの忌々しい人間の女だった。
単身この城へ乗り込み、陛下の命を簒奪しようとした忌むべき敵。陛下がなぜかあの女を保護し、陰ながら援助を与えるたびに、補佐官の胸中には反発と、それでも逆らえぬ忠誠の間で激しい板挟みが生まれていた。
魔族の中に人間が混ざれば、なしくずしに蝕まれるのは魔族の方だ。医官長であるフッセルルが取り仕切る診療所で働きだした女は、たしかに自分の意思を持った人間だった。献身的で、弟妹への愛情が内奥の核であったことは明らかだ。花群れの美しさを愛でるように、そこにある無垢な愛を美しいと褒めることはできる。しかし、その存在が魔族を外側から蝕んだ。人間がそばにいる恐怖、城壁に囲まれた安息の地で人間と同居する苦悩は、魔族たちの心をやすやすと挫折させ、排斥に終始させた。
それゆえに排除しなければならないのだ。あの無遠慮、無垢を装った女を前にして、個人的な愛着など除いて、魔族の歴史の隙間におさまろうとする肉を掴み、引き裂いて、死の山に積むべきなのだ。我々の同胞が積みあがった山は、女の体一つで覆すことのできない高さにあるのだから。
個人として女を忌避している。だが、そのことは補佐官としての意思決定に何ら影響を与えていなかった。魔族の規律を軽んじてしまえば、規律と共にあった己の生涯すらも笑うべきものになるという自覚があった。武官、文官を統括する者として、思うがままに暴力を振りかざすことはできない。ただ一つ、崇高な、主の軌跡が形作る秩序を、永遠不変に維持し続けること。それだけが、矜持だった。
二人は、石柱の瓦礫で彩った葉群れの背景の前で、かわるがわる立ち位置を変えて、剣を振り下ろし、薙ぎ払い、そこであるいは砂をかけて目を潰し、あるいは足を払っていた。
戦いの中へ没頭する女の顔は涼しく、対する男の顔は汗にぬれ、眉を怒らせている。
隙の大きな一振りを避ける。刃の横に並んだ唇は、一線、荒い息を吐くこともない。一心に弟妹の心をくみ取ろうと必死になる姿を覚えている補佐官は、その異様な風貌が際立って見えた。
あの女が猛然と魔王へ刃を向けることなど、本来ならあり得るはずがなかった。剣が振るわれるごとに、陛下から余裕が剥ぎ取られていく。
その様子を、瓦礫の上に腰かけた将軍が、冷徹に見下ろしていた。
「……何か言えるようにしてやろう」
無造作に手が振られる。男の手首が赤く光った。
次の瞬間、猛攻を仕掛けるルカの首の裏に、鮮血色の術式が浮かび上がる。
補佐官は息を呑んだ。見覚えがあった。数日前、あの女の衣服の裏側に不自然に縫い付けられていた、「契約の紙片」――そこに記されていたものと、寸分違わぬ術式だった。
術式から触手のように伸びた赤い光の筋が、襟元から衣服の内側へと、這うように潜り込んでいく。女の眼光が揺らめき、口の端に不快が張りついたが、すぐに消えた。
補佐官は、直ぐに将軍の方を振り返った。男の手首から、赤い術式が消えるのを見た。発動させたのは、間違いなく「将軍」だ。
――もしも、人間の女が本意ではなく、そうし向けられてここにやってきたのだとしたら。
補佐官は沈黙のなかで思考を走らせる。いずれにせよ、あり得ないことだった。女の意識を奪い、意のままに操る。これほどの支配を可能にするのは、人間のなせる業ではない。魔族のみに許された「特性」の領域なのだ。
角を持たない男――将軍が、立ち上がる。
「落胆しているだろう。事もあろうに、お前たちの王は大儀というものをわかっていない。あのような小娘に、指ひとつ触れることもできず、それで魔族の王を名乗っている。一体何が、守れる。血を厭う手で、何を守ろうというのだ」
「陛下! 生きてください!」
将軍の嘲弄に、心の内で叫ぶ魔族の自負が、もはや限界だった。自分の発言が主の不利になると理解してなお、抑えきれなかった。
駆け出した補佐官の手には、先の激突で弾き飛ばされ、地面に転がっていた陛下の直剣が抱えられている。
将軍は、戦いの場へ向かう補佐官の動きを目で追い、湯気をたゆたせている体を瓦礫の上に立てたまま、顔色も変えなかった。心は急速に冷えている。羽虫のごとき魔族の動きを見ても、鼻息をひとつ払い落としただけだった。
直前まで剣を交えていたからこそわかる。魔王が、あの直剣を受け取るとは思えなかった。直剣、戦斧、槍、住民より投げ渡された得物を使いこなし、破壊されても、顔色ひとつ変えなかった男だ。あけた口の奥に手を突っ込んだとしても平然と噛み千切ってくるだろう。そんな男が、女ただ一人の前に、ひたすら生まじめに剣を弾いている。
「来るな!」
魔王の目が見開かれ、声に貫かれた補佐官の足が止まる。
執拗な刺突を避け、魔王が大きく距離を取った瞬間、ルカの身体が肉眼で追えぬほどの速度で追随した。




