9-16『一頭の羊』
将軍はルカの顔面を鷲掴みにして引き寄せると、輪郭を砕けよとばかりに締めあげた。五指は顎や眼窩を容赦なく押し込み、顔を覆われたルカは呼吸すら奪われる。
一瞬、剣で将軍の体を突こうとしたものの、鳩尾に痛烈な膝蹴りを受けて、手放した剣が足元に転がった。
陽光にきらめく剣の腹を踏みつけ、将軍は薄れゆくルカの意識の底へ、ただ一言を投じた。
「存在が、無駄だ」
「――ッ、んん゛ーっ…!」
ルカの瞼は真っ赤に塗り潰された。皮膚を突き破った指から、噴き出した血が首に這う感覚に、耐えきれず動転する。もがき苦しむルカの体は痛みに捻じれ、奇怪に裏返った。
息ができないまま、宙に浮く女をみる将軍の目には、悲しみだけがある。悲しみは、いつまでも去らずに残っていた。
顔面を覆う右手が赤く光り、ルカの顔を中心に円形の紋様が浮かび上がる。
将軍はなおも、心の中で問い続けていた。なるたけ感情を抑え、この許されざる不始末にも、まだ目を瞑ろうとしたのだ。
勇者の剣に選ばれた女が、後付けの正義感でもって、おそらく資質にすらない崇高な行為を仕損じることなど想定内だった。問題はそのあとだ。良心の呵責があるならば、自分の命をもってして何らかの謝罪をすべきなのだ。国の役に立てず、領民の役に立つこともできないことを、地面に額を擦りつけて詫び、直ちに自分の罪を認めるべきだった。
だが、その謝罪はいつまで待っても来ない。胸に去来するのは、怒りではない。暗鬱だ。
――女は、いつもそうだ
「……作り変えなければ」
しわがれた声で言い置いて、男は自分の「特性」を使った。
魔王は、血に塗れた瞼を開き、砕けた石畳の上に膝をつく自分の姿を見下ろしていた。砂礫の上に、ぽたぽたと血が垂れて、粘性のある赤い液溜まりをつくっていく。冷静さが失われた頭では、まったく何も考えられなかった。どさり、と、鈍い音を耳にして人が倒れたのだと気づき、自分が戦場にいたことを思い出した。反射的に顔をあげると、地に伏せる体をなぞった目は、ルカだ、と直感した。
「……遅かれ早かれ、こうなる運命であった。魔族は滅びを宿命づけられた種族だ。お前の父の代で与えられるはずだった絶望を、ただ、同質に、お前に与える。それが、真の平等というものだ……」
残骸に腰を下ろす将軍の呟きも、手紙を読むような平坦な声も、魔王の認知の外にある。
守られることなど、少しも願わなかった。まして、害の及ばぬように庭園区まで離れたというのに。女がひとり、血だまりの中に倒れているという情景が、彼の信念を傷つけていた。空は赤く変貌している。ともすると、自分はここで死ぬということだ。先の為ではなく、まして昔の為でもなく。今であった。
ルカは糸に引かれるように、音もなく立ち上がった。風になびく下衣から砂塵を払いもせず、意味もなく、ただ少し先の地面に頭を向けている。将軍は鼻を鳴らした。嘲笑のようにも、老年の肩に乗った人生の重みに、耐えかねた嘆息のようでもあった。
振り返ったルカの顔は血に塗れ、額より垂れた血に目だけが白く見えた。色のない、平坦な視線が魔王の形を捉える。
そこに立っているのは意思を持たない人形だった。
「魔王に死を」
命令に従い、ルカは己の剣の切っ先を、魔王の胸元へと向けた。
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陥没した庭園区の凄惨な有様を前に、補佐官は片眼鏡の奥の目を険しく細めた。
王国軍の強襲に、城内は蜂の巣をつついたような騒ぎだ。被害を受けた居住区の住民らを、城の地下にある大空洞まで誘導する指揮は、すでに文官長に預けてきた。
日頃の訓練のおかげで、早朝の大移動にたいした混乱は生じていない。大空洞での生活を長時間強いられたとしても、すぐあとに来るものが平穏だと思うこともできる。
何故ならば、陛下が戦っているからだ。王の存在は、この世に魔族が、誰の許しも必要とせず、意味もなく、ただ生と死をつなぐだけでいいという証なのだ。次第に、交錯する打撃音が庭園区に移っても、錆びた鉄を擦るような音の中にさえ、あたかも朝日を受けて輝く旗印を見るような心地がした。あの人は必ず勝ってくれる。領民の不安や焦燥は、いつも彼の中に感受される。
補佐官が自ら数名の兵士だけを連れてこの場へ赴いたのは、庭園区に配備されていたはずの衛兵らを回収するためだった。
もはや魔王と将軍の衝突は、一般的な戦闘の領域を逸脱しており、並の魔族が立ち入れば、戦いを妨げる足手まといになると理解していた。
もっとも、城の最大戦力である武官長を筆頭とした鉄騎隊がいれば、陛下を補佐し、将軍を押し返す戦力たり得ただろう。しかし彼らは、夜中の狩りで出払っている。呼び戻すために放った鷹がすでに彼らを捉えていたとしても、帰還には物理的な時間を要する。今、王国軍の柱である将軍に渡り合えるものは陛下ただひとりだった。これまで城内に王国軍の侵入を許したことはない。我々は何をすべきか、補佐官の思考のかたわらで、楽観と悲観がせめぎ合う。
そして、庭園区に到着した補佐官が目にしたのは、白刃を避けることに懸命になっている魔王の姿だった。




