9-15『一頭の羊』
「人の身でありながら、化け物を庇うというのか! お前は、勇者だ! 勇者は、人間に傅くものなのだッ!」
魔王はまだ意識を取り戻さない。彼の前から動けないルカは、二撃目を全身で受け止める。三撃目、四撃目、力に押され、とうとういなし切れずに、片足が滑った。骨が砕ける音は、耳奥で、雷音めいて響いた。
――ただ、肩が、切られただけだ。ルカはそう自分に言い聞かせた。しかし、骨と肉が断たれた事実に心まで弱く衰え、一息に死の岸に寄せられたと錯覚させられる。
肩口よりほとばしった血が胸を染め、青白い頬に赤い飛沫を放つ。早鐘の鼓動が、乱暴に体の中をめぐり、手足から血の気が引いていく。だが、ルカの目は将軍から離れない。
「……もういいでしょう」
「何一ついいことなどない! お前は、人間だ。俺がこの手で生み出した、勇者なのだ。そのお前が、血を裏切るとはどういうことか! 弁えさせるのが、創造主の務めというものだッ!」
将軍は両腕を振りかぶった。ルカの体は、巨大な重剣がつくりだす影の下に在る。男の頬は盛り上がり、目の下が嫌悪に押し出されて、顔は燃え盛るように赤い。
死が迫るとき、ルカは、魔王のことを考えていた。彼が目覚める時間を稼ごうという気持ちもなかった。ただ、彼を守ることができたら、それで良かったのだ。思えばいつだって、勝手気ままな気持ちを押しつけてきた。
ノクスが、自分を大事にしてと言ってくれたことだってちゃんとわかっている。弟から感じる、その並々ならぬ優しさと、同じくらい膨らんでいる苛立ちに気づいている。きつい言葉を使っても、すぐに謝ってくる優しすぎる気質を愛していた。自慢の弟だ。だけど、自分はなにができた? 自分の体を差し出さずに、命を賭けずに、何ができたというのだろう。
――何も
私は、まったくもって出来の悪い人間だった。これが自分の思い描いていた理想の姿であったとは、言い切ることはできないまま終わっていく。
弟妹はあれほど賢く、健気に育ったというのに、自分が二人の年頃には、まだ読み書きさえできなかったのだ。一冊の絵本をくりかえし読んで、物語を味わうこともできず、自分がなにをなすべきかもわかっていなかった。
机と寝台、棚と水場の詰め込まれた小さな部屋で母とふたり。好んでいたものは、母のことだけ。部屋のどこにも私の物はなく、人生でたった一度自ら望んだことといえば、手紙を書かせてもらったことだけだ。もっと母に多くの事ができたはずだ。労わりという愛を、もっと、確かな形で返すことができたのなら、結末は変わっていたのかも知れない。引き出しにしまわれた手紙は誰にも届くことはなかった。手紙よりも、鏡の前で泣いている母が気にかかった。どうして泣いているのか、教えて欲しかった。不安と、拙い慰めを行き来し、泣き声に耳が溺れてしまう前に、あの人が迎えにきてくれることを願った。母を、助けて欲しい。ここから、どこか広い世界へ連れ出してあげてほしい。そればかり願って、願って、願って、願うだけしかできなかった。
それはきっと、私だけではなく、母の人生のすべてであったのだ。
――時が過ぎるよりはやく……死が来る
こうして誰かを守って終わるというのなら、喜びさえ感じることができた。
ルカは肩を張り、頭を上げたまま、近づいてくる剣に何の恐怖も感じていなかった。
ふと、目の奥に何かが映った。泰然と据えられた腰の向こうに、真っ白い輪郭がぼやけて見えた。ルカは瞬いた。周囲の瓦礫の中に、一箇所だけ情景がのこされている場所があったのだ。
小さな池のほとりに花が咲き乱れている。見覚えのある柔らかい輪郭に、頬が緩み、目元がとける。純白のネリテの花、アルバのくれた花だ。
――きれい
美しいものは美しいと言えばよかったのだ。終わりに相応しく、目の奥にほとりの花群れを閉じ込めて、瞼を閉じる。
しかし、唾を飛ばして口上の述べた男は、待てども死を与えなかった。男は、動きを止め、驚愕に見開かれた目でルカを見下ろしていた。
両手で握り込んだ剣の柄から歯ぎしりのように、革の軋む音が地を這う。将軍は苦々しく顔を顰めて、こう言った。
「……その押しつけがましい顔……男を庇って死ねるのがそれほど嬉しいか? 死がお前の未熟を補って、命と感応するとでも思っているのか? わからない…………お前たちは、そこまで救いようがないというのか……」
言葉を紐解く時間すらなかった。すぐに男の腕に激しい痙攣が走り、重剣がその手から無造作に落とされた。あんなに固く握られていた柄から、男が自ら指を解いたのだ。
男の目からも、弛緩した体からも、活力が失われた。その代わりに、体の芯が明かされたような気がして、ルカは反芻し、何かを発しようと口を動かす。
将軍の言葉が何に結びついているのか。心の片隅で、相手の気持ちを思い浮かべようとするルカの癖が、裏目に出た。




