第十二話 境界(四)
傍目にはこじゃれたカップルに絡まれた哀れな中年男女に見えたに違いない。私なんて、派手なおねえさんにきいきい喚かれて困惑のあまり左手をふるふる振り回しているようにしか見えなかったんじゃなかろうか。なんてかっこ悪い戦闘スタイルなんだ。くたくたと、マットに座りこんだ。一緒に腰を下ろしたケイさんの首に腕をまわしてしがみつく。
「もう、何から情報を整理すればいいのやら……」
「少し落ち着こう」
ケイさんは私をマットに横たえると
「詩織、さっきはありがとう」
「……そんな。こちらこそ」
ぎゅうっと、私を抱きしめた。
「俺が悪かった。きみの異能を軽く見積もっていた」
話が見えない。
「結論から先にいおうか。詩織、結婚しよう」
「ずいぶん飛躍しましたね。わけが分かりません」
「……もうちょっと喜んでもらえるかと思ったんだが」
「複数回にわたって拒否されたもので」
ケイさんは「そうだった、俺が拒否したんだった」としょんぼりした。しかし、気を取り直したか、話し始めた。
「精神干渉と治癒、複数の異能があれだけ高レベルで発現しているのではどんなに生命力が高くても追いつかない。出産どころではない。妊娠も難しいだろう」
「そうかもしれません」
「だから俺が」
そこ、そこですよ。思いっきり飛躍してるって。
――まあ、いいや。
こういうやり取りを繰り返していても仕方ない。ケイさんが納得したんだったら、私はそれでかまわない。それがこの人の幸福につながらない気がする、そのことに目をつぶれば。分かっていても私は自分の幸福を優先してしまう。
「分かりました。多々良が浜へ戻ったら正式に婚約しましょう」
ケイさんが微笑む。ちらりと白く美しい歯が見えた。
「さっきのごたごたで、ひとつ明らかになったことがあります。あなたのことで」
私は目の前の人の唇の端にそっと口づけた。
「あの不穏な気配を引きずる存在があなたと同一でないと確かめることができました」
「そうか」
「疑ってしまってごめんなさい」
「いい。必要なことだ」
儀式前日、梅の木の前でケイさんを針で刺そうとしたときのことも話した。
「なるほど、においか。それで大広間で獣化のときのにおいを確かめたがったんだな」
「ええ。梅の木の前ではちゃんと分かっていなくて大雑把に獣臭で丸めてしまって。あなたのお兄さんと混同してしまったんだと思います。全然違うにおいなのに」
「確かに、梅の木に行く直前まで獣化してた」
「そうなんですか?」
「どうやって入りこむんだか分からないんだが、兄が時々やってきて喧嘩を吹っかけるんだ」
「あの日のことは意図していたんだかいないんだか分かりませんが、ケイさんのお兄さんってとことん嫌な人ですね。私、あの人のこと、ほんとに嫌いです。セクハラするし」
口を滑らせてからしまった、と思ったが案の定「セクハラ」でケイさんは過剰な反応を示した。何をされたのか根掘り葉掘り聞かれたが、耳もとでねちねち嫌みをいうくらいなので正直、ケイさんより行為そのものはおとなしいと思う。ただあいつにされると悪寒で震えるくらいものすごく嫌、そこがハラスメントたる所以なんだが。
ケイさんはしばらく「あいつゆるさん」とぷんすかしていたが、表情を和らげた。
「あのとき、振り向いたきみは美しかった。殺意と憎悪に満ちて物騒で剣呑なのに、凛々しくて本当にきれいだった」
それで青い泉の壁にタイルにして後生大事に飾ってあるわけね。私としては複雑だけど。
「見惚れてもたついてしまったんだが、あのとき実はきみに獣化のことを打ち明けようと思っていたんだ」
「え、そうだったんですか?」
「俺の針毛を美しいといってくれたのが嬉しくて。きっと怖がられると思って迷ったんだけど……ためらったのがいけなかったんだな、結局きみを怒らせてしまった」
あのとき、私は「なんで話を聞いてくれないの」と思った。話を聞かなかったのは私のほうだったんだ。
「ごめんなさい」
「いい。かまわない。あれは俺が悪かった」
いつもこうしてケイさんに譲らせているような気がする。
「結婚したら面倒事が増えて相当に我慢を強いることになると思うんですが」
「かまわない。能動的に現状の維持を選ぶということだ。プラスアルファで多少仕事が増える程度だろう」
「どういうことでしょう」
「おそらく、きみが館のあるじ、つまり実験記録装置の管理者の仕事に専念し、俺が婿入りという形で白梅荘や他の不動産やもろもろの管理、対外的な諸業務に従事、という分担になると思う」
えらく仕事量が偏ってるな。
「専門性の高い業務は外注しているし、何より昔より規模が縮小しているから平気だ。さっきいった通り、今の生活とほぼ変わらない。そして俺が自分をコントロールしさえすればきみを失う日を先に延ばせる」
「すみません」
「いや、かまわない。現状維持がいちばんいいんだ。もっと早く気づけばよかった」
ケイさんは私の頬に額に、そして唇にずぶずぶのキスをした。この人にコントロールする気があるのかどうか、疑わしいような気がしないでもない。
ニセアカシアの茂みの陰で風に吹かれ、二人で川面のきらめきに目を細める。白梅からの束縛がいくらか緩むここでいつまでもこうしていたい。
――分かっている。
そういうわけにもいかない。
「車に戻ったほうがいいんじゃありませんか?」
「なぜ?」
「ケイさんのお兄さんって、腹いせにタイヤをパンクさせそうな感じ」
ぷぷ、とケイさんが噴き出した。
「その場合はもう遅いだろう。今までいくらでも時間はあったわけだし。でもそろそろ移動しようか」
「はい」
駐車場に戻ると車は一見無事だった。片づけるまで車に触らないようにといわれて少し離れたところで待つ。
「きみのいうとおり、何かしようとしたみたいだな」
「そうなんですか?」
「ああ。触ろうとした痕跡がある。でも儀式の後に回収した針毛を仕掛けておいたから手を出せなかっただろう」
よっぽど痛い目に遭ったんだな、「島」で。
車のチェックを済ませた後、いったん白梅荘に連絡を入れた。ケイさんが状況を説明したのち、電話を代わってもらった。
「詩織ちゃん、大変だったわね」
「ええ。それよりそちらに問題はありませんか。私たちは特に火急の用を抱えているわけでもありませんし、戻りましょうか」
「こちらは大丈夫よ」
「でも」
「白梅は乗っ取りを警戒している」
「ええ。先ほどそう宣言されました」
「白梅はこういう事態は予想していなかったみたいだけど、たぶん今回は平気。スケジュールを予定通りこなしてくれたほうが渉外担当の私としては動きやすいわ」
「分かりました」
仮に何かあっても当主不在のほうが時間稼ぎできるというわけか。詳細は帰宅後話し合うことになり、通話を終えた。
「予定どおりに動けといわれました」
「そうか」
そのほうが都合がいいんだろう、とあっさり納得するケイさんの様子を見ているとやはり、一朝一夕では培えない白梅の乙女の連帯を感じる。
私はごく自然に乙女のあるじの位置から白梅荘の住人を見ている。乙女は身近な存在だがポジションが異なる、そんな感じだ。まだ新米だからよく分からないのだけれど。だから乙女たちの連携連帯ばっちりな様子にちょっぴり蚊帳の外気分を味わうこともある。
自分が乙女なのかそうでないのか、それもよく分からない。でも自分の体内にあの契約錠があるような気がしている。ただそのわりに契約錠を体内に入れた記憶がない。こうしてふと湧く疑問に、白梅はこたえる気がないらしい。そこにも不穏な空気を感じる。なんとかして記憶の錠前を外してしまわなければ。
車は東京へ向かう。県境の大きな川を渡った。川面が空の青を映しきらめいている。橋の上から上流を望むと、丘陵の先にうっすら山並みが見える。河川敷の草むらも灌木も丘陵も、新芽のやわらかさでなく、育ち盛りの新緑が力強いグラデーションをなしている。
美しい。
不思議だ。広々とし過ぎて荒涼とした印象すら与えるのに、そこここの細部で沸き立つ生命の営みがこんなにも風景を彩り、波打つようにその存在を主張する。
橋の上の開放感に気を取られていた。川を渡り切った直後、身体全体をぬったりと倦怠感が包む。遠くから圧力がかかるのを感じる。
「ケイさん、大丈夫ですか」
「ああ、俺の異能は獣化一つだけだから少し体がだるくなった程度だ。きみはかなり辛いだろう。平気か」
「ええ」
この圧迫は白梅に違いない。予定と経過報告で動きを把握しているからというよりむしろ反射的に反応しているのだろう。手もとのハイブリッドコードキャリアという駒が遠くに離れ過ぎたと感じているのか、こうして束縛を強めている。
爪切りで指先を裂く。血があふれる。傷口の奥から治癒の感覚が頭をもたげ始めたと思ったら、すぐに傷口が塞がり始めた。速い。
「推測が当たるというのも場合によってはあまり気分のいいものではありませんね。境界はやはりあの川です」
「そうなのか。そういえばハイブリッドコードキャリアと実験記録装置の物理的な位置関係と影響範囲は今まであまり研究されてないな」
そういえば隣にいる大きい人はずいぶんこの手の話に詳しいような気がする。ハイブリッドコードキャリアには全員、あのむちむち精神干渉女に至るまでこういう知識が周知されているんだろうか。あまり賢そうでなかった毒々しい美女を思い出し、なんとなしに気分が悪くなった。
車は再び高速道路を走っている。私が黙りこんだので、ケイさんは体調を崩したと思ったようだ。
「気分悪い? 渋滞に巻きこまれなければあと三十分程度で宿につくが、まだチェックインの時刻にならないな。高速道路を下りて休めそうな場所を探そうか」
「いえ、大丈夫です。そうじゃないんです。ちょっと気になって」
「何が?」
「ケイさんって、ハイブリッドコードキャリアに詳しいですね?」
「そりゃあ自分のことだし」
「私は何も知らないですよ」
「詩織は無関係に育ってきたんだから知らなくて当然だ。俺の知る範囲でかまわなければなんでも答えるから、分からないことがあったら訊いてくれ」
「じゃあ、お言葉に甘えて。ケイさんってお仕事何してるんですか?」
ケイさんはぷ、と吹き出した。
「やっとその質問が来たなあ。詩織、俺に関心がないのかと思ってた」
「いや、だって……」
「訊きにくいんだろう。気を遣わせたな」
視線を前方に据えたまま、ケイさんは苦笑した。
「実質無職だし」
やっぱりそうなんじゃないか。だって、ここ三カ月仕事してるのを見たことないもの。
「俺、ハイブリッドコードキャリア専門の医者なんだ。まだ修行中だけど。白梅荘のみんなが元気で患者不在のため開店休業中」
「そうなんですか? てっきり調理師さんなのかと」
「いや、あれは趣味だ。白梅荘のみんなは面倒くさがりだからなあ。きみはわりとまめだけど料理がその……得意じゃないみたいだし」
ちょっと。メシマズだといいたいのか。しかしそこに引っかかっては話が進まないので根に持つにとどめる。
「ハイブリッドコードキャリアしか診ないんですか?」
「いや、普通の人間も診察できる。ただなあ、普通の人間を診るんだったら資格を取り直さないといけないんじゃないかなあ。ずいぶん昔だし戸籍も今と違うし」
「昔?」
「俺が普通の人間の医者だったのってかなり前なんだ。戦争中、軍医だったから」
はい? 戦争っていつの? 近頃戦争なかったはずなんだけど……まさか七十年前の? ちょっと待て、この人一体何歳なの?




