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白梅荘顛末記  作者: まふおかもづる
第二章  新茶と乙女

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第十話  境界(二)

――いつもいつもこんなに無防備というわけじゃないよね?


 前回もそうだった、「おいで」と誘われたからだろうが、岩塊のように見える心の外側にぽっかりと入口が開いていて今回も同じようにふるふるとやわらかい波動が漏れている。入口から覗きこむとそこにはやはり美しい風穴があって、温かく穏やかな風が吹いていた。きらきらと不規則に何かが明滅する青い泉が底に見えるのも変わらない。しかし視界に違和感がある。

 まず、ダイブしてみる。

 前回置いた振動ボムのところまでまっすぐ降りていこうと思ったが、とどまった。そういえばあのとき、乱暴過ぎたのかもしれない。もっとケイさんに負担をかけないようにしたい。両手両足を大の字に広げ、下から吹く風を捕まえる位置を探る。


――あった。


 意識をすべて持ってくれば前回の探索子より繊細に思い通り動けるかもと考えたのだが、当たりだったようだ。 ゆっくりくるくる回りながらホバリングする。速度は緩いけれど、これも気持ちいい。風穴を眺めながら下降するのも悪くない。そう思って周囲を眺め、気づいた。


――荒れてる?


 風穴の壁に大きな爪痕のように傷が走り、岩肌がむき出しになっている。ここは心の内側。感情の住まう場所だ。


――傷ついている……。


 もしかして昨日の、みちるさんも含め三人で婚約について話し合ったことで傷ついたのか。それともその前に会ったという「兄」にいわれたことで傷ついたのか。

 外で、私の体を抱きかかえる大きい人を思う。「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と背中を撫でているその人を、少し遠くフィルタ越しに隔てられたように感じる。こうして風穴でホバリングしている分には苦しくさせることはなさそうだ。

 安心したら周りを見る余裕ができた。大きな傷の近くで本棚から本が飛び出てふわふわ浮いている。風の流れに逆らわないようにそちらへ近づく。飛び出た本をすべて回収し、もとへ戻した。昔の文豪の全集や、外国語の辞書や本、科学分野の本なんだろうか、私には理解できない難しそうな本ばかりだった。

 そういえばこの人は何をしている人なんだろう。ここしばらくずっと一緒にいるから今は仕事をしていないんだろうけど。

 最後の一冊をすっと元の場所に戻したとき、顔にケイさんの吐息がかかったのを感じた。


――もしかして、こうして風穴の壁に触れると苦しいんだろうか。


 どうも違うらしい。ちゅちゅ、と額に口づけされる。風穴内の空気がくるくると躍動し始めた。


――喜んでるのかな。


 本棚の横を走る爪痕のような大きな傷にそっと触れる。風が少し強くなったが、すぐにくるくると機嫌よさそうな穏やかな上昇気流に戻った。

 上昇気流があるということはどこかに下降気流もあるんじゃないだろうか。ふわふわと漂い探っていて、求める空気の流れを捕まえた。心の主に負担がかからないよう、その流れに乗って下降する。

 やがて、風穴の底に辿り着いた。

 薄い独特の透け感のある布のような膜がゆらゆらと層をなし、その下に深い青い泉がある。膜越しに水面と、その奥で不規則に明滅する何かの輝きが見える。


――ああ、あそこへ行きたい。


 その前に、振動ボムを回収した。

 胸もとに押しこむ前にその振動ボムをじっくり眺める。確かに外見は爆弾らしくはない。目覚まし時計みたいでもないが。強いていうならばグラデーション染めの毛糸玉だ。さまざまな色の糸が巻いてあってわずかに弾力がある。搭載してある機能はなんだろう。あのとき感情に任せて思いつきで作ったから自分でもよく分かっていない。両手で包んでくるくる回しながら、解析してみる。


――遠くから合図を受け取ってぶるぶる振動を発するもの、か。


 爆弾でなくて本当によかった。

 こうして意識をすべて持ってくることもあるだろうから、外側と連絡が取れるようなトランシーバーみたいな感じにできないかな、と手の中でくるくるいじりながら念じてみた。やはり外側にも送受信機みたいなものががないと難しそうだ。ケイさんの異能はヤマアラシの獣化であって精神干渉ではない。同じレベルの同じ能力があればトランシーバーのような機能もつくれたかもしれないがないものは仕方ない。トランシーバーは断念し、今搭載されている機能に追加できそうなものを考えてみる。


――リモートで合図を受け取って信号を返す(いかり)、みたいなものはどうかな。


 それならできそうだ。手の中でくるくるとまわしながら、意識を()って足していく。


――そうだ、時計も。


 これは外側の世界の時計でなく私の体内時計、つまるところ腹時計になるようだ。しかたない。それでもないよりましか。その機能も手の中で意識を撚って糸のように巻きつけて足す。そうしてできあがったものをまた見つめる。名前。そうだ、名前は。


――アンカー。


 錨だからね、そのまんまだ。

 不思議なことに、そうして名前をつけると、形が変化しはじめた。イメージ世界だからだろうか、不思議現象が続く。

 アンカーは金属質でずんぐりとした茶筒のようなものに変化した。上部に突起のようなものが飛び出ていて、そこに結晶のようなものがついている。その結晶がゆっくりと輝きそして光を失い、またゆっくりと光がともった。小さな灯台のようだ。恐る恐る結晶のようなものに触れてみる。熱くない。安堵してアンカーを胸もとに押しこんだ。

 しばらくこうしてあの泉の手前の繊細な膜の近くで作業しているが、少し遠く感じられる自分の体を通じて伝わるケイさんの様子は落ち着いている。変わらず穏やかに私の背中を「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と撫で、時折額に口づけている。

 試しに膜の中央に走った頼りない細い隙間にそっと手を差しこんでみる。私の背中を撫でるケイさんの手が一瞬、強張(こわば)った。しかし何でもないように再び大きな掌が上下する。再度、細い隙間に入れた手を動かして感触を確かめる。蜘蛛の糸より強く、絹糸より弱い。繊細な糸で緩く編まれたうすぎぬのような膜だ。今度は手を動かし、隙間を広げるように少し手前に向かってうすぎぬを裂いた。ケイさんがぎゅうっと私を抱きしめる。頬に、大きい人のわななく吐息がかかるのを感じる。


――やはりここを突破するのはやめたほうがいいんじゃないだろうか。


 手を隙間から離そうとしたとき、私の背中をとんとん、とケイさんの掌が優しくたたくのを感じた。とんとん、とん、とん。そして、また「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と掌が私の背中を撫でる。


――力尽くで突破してくれ。


 ダイブする前、ケイさんはそういった。私はあの青い泉に入りたい。ケイさんも見せたいのはこの奥だといっていた。手であのうすぎぬを少しずつぴりぴり裂いて苦しみを引きのばしても仕方ない。


――一気に行こう。


 不安定になった上昇気流を捕まえて高いところへ一度戻る。向きを変え、下降を始める。体をひねり回転をかけ、速度を増す。腕を伸ばして細く流線型になるようイメージしてうすぎぬの中央、細く頼りない隙間へ飛びこんだ。

 ぷちぷち、ぷちり。

 頼りないそのうすぎぬは複数の層をなしていても私の勢いを()がなかった。外側でケイさんが私の体を抱きしめ、息を呑み震えている。

 私は一気に泉へ飛びこんだ。

 ずず、ずん……。

 伸ばした両手が水を裂き、そこから泡が生まれる。突入の勢いが緩んだところで向きを変え、上を見上げる。通り過ぎた後の風穴で風が巻き、激しく荒れるのが破れた膜越しに見えた。


 青い。透き通っていて、青い。風穴から数条の光線が泉の奥底までまっすぐに伸び、照らす。


――まるで、セノーテみたい。


 メキシコにあるという、清い水の湧く泉のようだ。風穴の下は白い岩盤に深く開いた洞窟で、透明度の高い水で満たされていた。うすぎぬを破ったことでさらに明るくなったのか、遠くにある底までくっきりと見える。底には煙突のような大きな塊があり、ぷくぷくと泡が出ている。


――ケイさんは大丈夫だろうか。


 うすぎぬを突破したからか、泉の水が隔てるのか、体の感覚が一層遠くなったような気がする。額にかかるケイさんのわななきと息が徐々に落ち着いてきた。掌が私の背中を上下する。「だいじょうぶ、だいじょうぶ」といっているのだろうか。

 胸もとからアンカーを取り出し、泉の入口近くにある鍾乳石の根もとにくっつけた。


――ここにつかまっていてね。そして呼んだら「ここだよ」って返事して。


 アンカーの先端の結晶が応えるようにぼうっと光った。


 目を閉じ、水中で力を抜いて漂う。


――気持ちいい。


 穏やかな泉だ。冷たくもなく温かくもない水が身体を包み、時折ぷくぷくと昇ってくる泡が肌をくすぐる。このまま眠ってしまいたくなる、そんな駘蕩(たいとう)とした快さだ。

 ざ、ざわざざ。

 泡の塊に揺さぶられた。目を開けると、白い壁面に埋まった何かが輝いている。水をかき分け、近づいてみる。すべすべのタイルのような何かだ。輝きが失せつつあり、模様がよく見えない。指でそっと触れてみる。

 ざ、ざわざざ。

 再びそこから泡が生じ、タイルが輝き像が浮き上がった。そこに描かれていたのは私だった。まるで写真みたいだ。淡い光の中で私は布団を引き剥がし左半身がはみ出た状態で眠っている。なんて寝穢(いぎたな)い格好だ。私だったらオノレのその姿を見て間違いなくそう思う。しかし視線の主の印象は違うようだ。タイルからその感情が伝わってくる。


――こんなに無防備に安心しきって眠っている。

――パジャマ一枚では風邪をひいてしまうのではないか。心配だ。

――愛しい。


 ざ、ざわざざ。

 不規則にさまざまな場所でタイルが輝く。洗濯物を抱えて大きい人を見上げ微笑む私の姿があった。理沙嬢とじゃれる私の姿があった。お久さんと並んで歯磨きをする私の姿があった。真知子さんと並んで食糧庫で酒を探す私、みちるさんに叱られる私の姿があった。梅の木の前で針を手に振り向く殺意と憤りに満ちた私の姿があった。儀式のとき、うろたえて震える私の姿があった。境界の川辺、ケイさんの腕の中で頬を紅潮させ、目を潤ませ情欲にまみれてそして、そのことに打ちのめされる私の姿もあった。触れればまるでキャプションのように視線の主の感情が見える。他人から見れば愛とも、恋ともいえないのかもしれない。執着であり依存でしかないのかもしれない。でもこんなにもこの大きい人は私を必要としている。私と同じくらい、あるいは比べようのないくらい。もしかしたら私とは全く異質の感情なのかもしれない。この人は他の何をさしおいても私を優先するつもりでいるのだ。まだ出会ってから数カ月しか経たないのに。


――嬉しい。本当に嬉しい。

――でも私に課せられた義務にこの人を巻きこみたくない。


 この大きい人にとって幸せとは何なんだろう。私が距離をおき消えてしまえばいずれこの人は自力で幸せをつかむと思っていた。もしかしたら違うのだろうか。

 壁に埋まった無数のタイルが不規則に明滅する中、私は泣きたくなるような切ない思いを抱き、透明で青い水の中をゆっくりと沈んでいった。


 泉の底。ここも白い岩盤でできている。煙突のようなものが岩盤から突き出ていて同じ白い岩でできているように見えたが、どうも違うようだ。生き物なんだろうか。水と泡を噴きだすときに煙突の口が大きく開く。さらに下層があるらしい。暗くやはり青い空間がちらりと見えた。

 煙突に銀色のきらきらしたものがくっついている。そっと指できらきらをつついてみる。煙突はいやいやをするように筒型の身をくねらせた。そしてぎゅっと身を縮め、私のほうに口を向けると、ぷぷぷ、と泡を吐いた。


――おもしろい。いそぎんちゃくみたいでかわいい。


 煙突の吐いた泡は温泉のようにあたたかい水に包まれていてこれもまた気持ちよかった。再びつんつんとつつき、くるりと身を翻し反対側へ移動する。煙突がくい、と口を過たずこちらへ向けぷぷぷ、と泡を吐く。外側で私の体を抱くケイさんがくくく、とくすぐったそうに笑っているのを頬で感じる。よかった。苦しんでない。

 風穴から差しこむ光の帯。

 壁できらりきらり、ざ、ざわざざ、と明滅する無数のタイル。

 深く青い光に染まる泉の底。

 温水と泡を噴き出す不思議な煙突と戯れ、心の内と外に隔てられてそれでも、くすくすと笑い合いながら、大きい人と私は窒息しそうなくらい幸せだった。


 ふと気づくと、すべての動きが止まっている。煙突、タイルの明滅、揺れていた光の帯、私の背中を撫でるケイさんの掌、すべての動きが。


――おかしい。


 そう思ったとたん、青かった泉の色が黄色に、そして赤に変わった。タイルがぎらぎらと明滅の速度を上げ、沸騰するように泡を噴く。


――アンカー、私をお前のところまで連れて行って。


 呼びかけるとアンカーの光が私を貫く。泉と風穴の境界まで一気に浮上した。勢いをつけて風穴の底へ飛びあがる。そこは風が吹き荒れていた。

 上から何か落ちてくる。それは古び錆びて、禍々しい形をした顎のついた巨大な(もり)だった。


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