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白梅荘顛末記  作者: まふおかもづる
第二章  新茶と乙女

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第九話  境界(一)


「広い……」


 県境の川の下流域、河口までまだ距離があるがそこは広々とした河川敷だった。


――まだ五月に入ったばかりだというのに、もう夏のよう。


 散策路から外れ、人目につかない灌木(かんぼく)の陰に落ち着くことにした。マットを敷き、並んで寝ころぶ。ケイさんがブランケットをかけてくれる。潜りこんでぴったりとくっつくと、日向のにおいに包まれてさらに落ち着く。しばらく夏のような日差しを反射してきらめく川の水面を二人で眺めていた。

 ドライブ中、何度も切り裂いたのにきれいに癒えている左手の薬指に爪切りで傷をつける。腕時計で時間を計る。爪切りをポーチにしまい、ティッシュを取り出し、あふれる血を吸わせる。治癒能力が高まるときには独特の感覚がある。傷が奥からちりちりと痛みにあぶられるように軽く疼くのだ。ゆっくりと、かすかにその感覚が左手の指の奥から立ち上がる気配がする。これが白梅の支援を受けない、あるいは支援が薄くなった状態の治癒能力なのだろう。さすがに白梅荘の大広間にいるときのように瞬時に癒えるあの速度とは比べ物にならないが、館のあるじオプションとしての治癒能力だけでも常人のレベルを軽く凌駕(りょうが)している。


「痛くないのか」


 ケイさんが私の左手を取る。ティッシュを剥ぎ取って傷口を確かめた。


「痛いです。でも確かめた甲斐がありました。白梅荘にいると館のあるじとして与えられた治癒能力に加えて白梅からの治癒支援があるんですが、この場所だと白梅の影響が薄くなっていると感じられます。あなたはどうですか? 何か変化を感じませんか?」

「変化? 獣化のことか?」

「ええ。もしかしたら獣化しやすくなるよう白梅が後押ししているのでは、と」


 ケイさんはしばらく目を閉じていた。体の感覚を確かめていたらしい。ブランケット越しに背中に当たる手の爪がにゅにゅにゅ、と伸びたり引っこんだりしている。


「確かに、少し、いや、かなり違う。コントロールしやすい、のかな。落ち着いている気がする」

「実験記録装置の近くにいると異能が顕現しやすいんでしょうね」

「そうかもしれない」


 生命力をいっぱいいっぱいに使った状態で異能をマッピングされているのに加え、その異能を刺激されている状態だから、白梅の近くにいるとなんとなく気疲れするのだろう。ごくわずかだから普段はあまり意識しないけれど。だから少しだけ束縛から解放された気分になる。



「ところで、その仲のよくないお兄さんの件ですが。何をいわれたんですか」

「それがその」


 「成功例のオレと違ってネズミは所詮従者どまりだ」「オレならあの女のパートナーになれる。播種計画の交配実験上も、対外的にもネズミはふさわしくない」とかなんとかいいやがったらしい。ぽっと出のダークホース後継者である私ではなく白梅荘の資産がほしいのだろうが、私でなくケイさんにねちねち絡むとは。ゆるしがたい。それにしても。


「真に受けないでほしいなあ」

「すまない。こうしてきみの前で改めていわれたことを並べてみるとわりとどうでもいい感じだな」

「そうですよ。だからどうした、それがなんだって、いってやってよかったんですよ」

「そうだな」

「だって私たちお互いの唯一、対なんですもの。そうでしょう?」


 ケイさんの右手を取り、私の左胸にあてる。


「私の心の中に、あなただけが住む場所がある。他の誰のためでもない、あなただけの場所が」


 どちらからともなく、唇を重ねた。吐息が熱く、唇が心もとないほどやわらかい。顔が獣毛に覆われていないだけで、ヤマアラシ姿のときと同じ感触。針毛で頭や血管の集まる首を刺されずに済む今、世話焼きで甘やかすのが好きな大きい人の猛々しい一面が自分に向けられるのが――ダイレクトに結びつくわけでなく少しだけ複雑な経路をたどるけれどそれでも――嬉しい。しかし境界のここで幾分コントロールしやすくなったとはいえ、やはり獣化のおそれはある。そして私の治癒能力は落ちる。恐る恐る舌を絡める。ちりちりと体内をかけのぼる快さと切ない吐息とを振りほどくように、私たちはお互いの体を離した。

 限界だ。


 のどかな初夏の午後。さんさんと降り注ぐ陽光は盛夏ほど厳しくなく、私たち二人の体を隔て吹く風は穏やかで、涼やかだ。再び、私たちは身を寄せ合った。


「私たち……あまり心赴くままにとはいかないですけど、それってケイさんのせいばかりじゃないですよ」

「そうなのか?」

「ケイさんは私の人生の残り時間を考えてくださったんでしょうけど、私の気持ちは考慮していただけないんですか」

「でも」

「私はあなたのことが好きです」

「……知ってる」

「じゃあ、正直にいいます。私、出産したくないんです」

「そうなの?」

「はい。だって自分で育てられないのが分かってるのに産めない」

「それは……そんなにたくさん、しかも高いレベルの異能を持っているのか」

「私は生命力が高くないんだと思います。だから妊娠と出産で残りを使い尽くすことになると思います」

「生命力の明確な定義と計量、異能や生殖能力のマッピング、そのあたりの詳しいことは未解明だからな。確かに最悪のケースを想定しないといけない」

「ええ。私には白梅の館のあるじとしてやらなければならないことがあります。だからまだ死ぬわけにいかないんです」


 次代の館の主を産むことができるかどうか分からない。だから出産のリスクを負えない。それだけでない。おば様から引き継いだ乙女たちを見届けなければならない。


「そうか。じゃあ俺が最後までできないのはむしろきみにとって都合がいいんだな」

「ええ。そう思われても仕方ないです」


 やはりそうなっちゃうよね。「都合のいい男だと思ってたんだな」ってなっちゃうよね。体を離そうと身動(みじろ)ぎしたら、大きい人にぐっと抑えこまれた。


「逃げるな」

「でも」

「仮に俺が獣化の問題をクリアしたとしても出産につながる行為に至れない、そういうことだな」

「そのとおりです」

「俺がいくら口で『構わない』といってもきみは納得できないだろう。じゃあ、見ればいい。触ればいい。俺の心に。きみが心に俺だけの場所を作ってくれたように、俺にもある。きみに見てもらいたい場所が」


 ケイさんが私の右手を取り、掌に軽く口づけた。伸びすぎて整っているといえない前髪の隙間から伏せた目がのぞく。そして握った私の手を彼の胸に押し当てた。


「儀式の次の朝、きみが目覚まし時計のようなあれを置いた場所、あそこを力尽くで突破してくれ。もちろんきみが傷つくなら無理はしなくていい。でもきみに知ってもらいたい俺の心はあれより奥にあると思うんだ。見てもらえないだろうか」


 いやいや、と首を振る。ケイさんが苦しいのはいけない。だめだ。


「詩織、きみが俺に何をしてもかまわない、ほんとうだ。それだけじゃない。俺に何を求めてもかまわない。本当にそう思っているんだ。それを見てほしい。おいで」


 厳しい崖のような岩塊に無防備に開いたケイさんの心の入口からふるふるとやわらかい波動が漏れている。


――だめだ。我慢できない。


 ケイさんの胸に頬を寄せて、いった。


「すみません。あなたの心にダイブします。今回は意識をすべて持って行きますから、前回のように話をしたりできないと思うんです」

「気を失うようなものか」

「おそらく。どんなに遅くとも一時間以内に戻りますが、それまでに戻らない場合、あるいはあなたが苦しくて耐えられない場合、強制的に浮上する必要があります。そのときの合図を決めましょう」

「キスだ。ディープキス」

「え?」

「さっきよりずぶずぶでねちっこいのを」

「そんなの勝手にされちゃ困ります」

「じゃあ、自力で戻ってくることだ。俺はきみのダイブに耐える。大丈夫だ。あとは、きみが時間内に戻ってこれるかどうかだ。俺はきみにずぶずぶのキスができるんだったらあのくらいの衝撃は耐えられる。むしろ喜んで耐える」


 どんなんだ、ずぶずぶのキスって。とにかく時間内に戻らないと勝手に始めちゃうよ、ということだな。


「大丈夫だ。きみがダイブしている間、きみの身体は俺がちゃんと守る。きみにとって危険なのは俺だけだ」


 いやいやいや、安心できない。


「じゃあ、ちゃっと行ってちゃちゃっと帰ってきますね」 

「ごゆっくり」


 ふふ、と笑うケイさんを軽く(にら)み、私はケイさんの心の中に入った。



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