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白梅荘顛末記  作者: まふおかもづる
第二章  新茶と乙女

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第七話  青葉(一)


 その夜、理沙嬢の母から連絡が入った。


「今日は本当にお世話になりました」

「いいえ、私どもは何も。石部さんのお宅は」

「お礼とお詫びに行ってまいりました」


 いやー、感慨深い。すっかり普通の、というよりしっかりしたお母さんじゃないか。いつキレるか喚くかとびくびくスリリングな気分を味わわせてくれたあの頃とはまるで別人だ。


「ところで母なんですが」

「真知子さん――、まだお帰りになっていませんよ」

「実は会社で少し体調を崩しまして」

「なんと」


 本来は暦通り休業することになっているマルカワカンパニーであるが、会長の真知子さんはこのところ忙しいらしく今日もご出勤だった。


「いえ、ご心配いただくほどではないと母が」

「さようですか」

「大事を取って数日こちらで静養を取らせたいのですがよろしいでしょうか」

「もちろんです」

「お許しくださってありがたいですわ」

「そんな」


 とまあ、そういうやりとりがあり、真知子さんは黄金週間終了まで勢田家で静養することになった。お年がお年だけに気がかりだがみちるさん、というより白梅が


「乙女契約に関わる変調ではないと聞いています」


 と問題視しないのでそういうもんか、と納得するほかない。体内でふとぶとと育ち根を張る契約錠だが、どういう仕組みなんだか、現代の科学水準では検知不可能なんだとか。知恵者とかいう種族って何者だよ。

 お久さんも黄金週間中は合気道道場が忙しいかと思いきや、そうではないらしい。


「叔父が快復してな」


 安堵の表情を浮かべた。


「ここしばらくこちらを空けて道場に通っておったからの、あやつに働けと押しつけてまいった」


 かかかか、と楽しげに笑う。そして久々にみちるちゃんに膝枕で耳かきしてもらうんじゃ、と浮き浮きしている。血が出ない程度にね、あらゆる意味でね、と念を押したくなったがこらえた。



 厨房で、夕食後の後片付けを、今夜もケイさんと二人でしている。


「お茶を淹れましょう」


 厨房において得意といえるのはこれくらいだし、「やるやる!」と張り切ってとりかかった。せっかく後片付けを終えたところなので聞香杯などの細かい茶道具は出さない。小さな蓋つきの湯呑みで出す。いい茶葉は気楽だ。とてもいい。がばっと淹れて蒸らすだけでたいそう美味だ。


「いい香りだ。そういえばそろそろ冬茶もなくなるな。春茶の時季だから注文するか」


 ケイさんが疲れの滲む表情でつぶやいた。昨日からイベントてんこ盛りだものなあ。仕上げに宝物のカメラが「バズーカ」レンズごと破壊されるし。見せてもらったが、ひどいものだった。水にぬれて泥がこびりつき、塗装がはがれ、振るとちゃぷちゃぷ、ちりちり、と音がした。曇りない曲面に濡れぬれと虹のような色が透け不思議に美しかったレンズには亀裂が入っていた。カメラはもちろん電源も入らない。これはがっくり膝ついても仕方ないね。かわいそうに。

 そういえば、と湯呑みの蓋を聞香杯(もんこうはい)代わりにくんかくんかしていて思いついた。


「このお茶って、どこで買ってるんですか?」

「ん? 東京のショップだけど」

「通信販売専門?」

「いや、そんなことはない」


 こてん、と小首をかしげて見せた。


「行ってみたい、かな?」


 あ、赤面してる。にゅにゅにゅ、と湯呑みを持つ手の爪が伸び始めたので視線で注意を促す。ぶるり、と体を震わせてケイさんは獣化を解いた。


「ドライブでもどう? 古いのが嫌でなければ車がある」

「ご面倒でなければぜひ。ただ私、運転に自信がないんですが」

「運転は俺がする」


 楽しい黄金週間になりそうだ。




「別に白梅荘の留守番がお仕事ってわけじゃないんだから、一泊二日くらい、自由にしちゃっていいのに」


 とみちるさんにいわれたがまあ、ひとまず断りを入れた。そうして現在、ケイさんと二人、一泊二日ドライブへ出かけている。目的地は台湾茶を扱っているショップのある東京だ。

 東京なんて、多々良が浜から毎日通勤する人も少なからずいるわけでさして遠くない。しかし黄金週間中だしどこでどのくらい渋滞に巻きこまれるか分からないし、のんびり走りましょう、ということで余裕を持って旅程を組んだ。行って帰るだけだったら日帰りで十分なんだけど。ケイさんが所有しているという古い紺色のワゴン車でとことこ国道を東京へ向かって走っている。持ち物に不足があればいくらでもお店のある便利な大都会が目的地だし、ということで私の持ち物はバッグ一つ、気楽且つ気軽である。

 夏を思わせる好天、腕をなぶるようなきつい日差しの下、海沿いを走っている。特に話をするでもなく、しかし気まずいというほどでもない沈黙に包まれた車内だ。県境の川までまだずいぶんある。


 小さな爪切りで左手の薬指の先を裂き、血が溢れるのを眺めた。運転席のケイさんが前方に視線を向けたまま、私の手を掴んだ。


「なぜ傷をつける」

「ちょっと待って」


 腕時計と左手の指を眺め、時間を測る。傷が塞がった。


「まだ駄目」

「……」


 ケイさんは車を逆方向へターンさせた。


「帰るの?」

「違う。いったん逆方向へ向かうだけだ。高速道路経由で早く東京へ向かうならまず山側の有料道路をつかうのがいい」


 隣町経由で山の方向へ向かい、有料道路に入った。信号も渋滞もなく、スムーズに走る。眉間に皺を寄せてまま前方を見据えるケイさんがぼそりとつぶやいた。


「盗聴の心配ならないぞ」

「え?」

「機材も用意して確認した。この車内は大丈夫だ」


 思わず泣いてしまった。あまりに申し訳なくて。


「あの屋敷の中で、きみはいつも話しにくそうにする。何かきみのためにできないかと思ってとにかくこの車内だけは完璧に調べた。安全な場所を作ろうと思った。少なくともこの車の中だけは大丈夫だ。そして今後も何を話しても安全な場所にする。それでというわけではないんだが……その、できれば俺に対する疑いを解いてくれないか」


 ケイさんは視線を前方に据えたまま苦笑した。


「疑われたままでも俺は構わない。気分は良くないが必要なら仕方ない。だけど、きみが何をしたいのか分からないが、今のまま誰も味方にしないのでは身動きが取れないだろう?」


 しゃくりあげて言葉を発することができず、私はハンカチに鼻をつっこみえぐえぐと泣き崩れたまま視線だけケイさんに向けた。


「マルカワカンパニーは今のところきみに(くみ)する立場にあるかもしれないが、今後どう態度を変えるか分からないんだし」


 でも。私のしようとしていることを知ったらあなたは。新たに涙があふれて言葉が出てこない。


「今すぐ決めなくていいから、仮にきみが俺を疑い、敵だと思ったとしても、俺はきみと対立したりしない。決してしない。本当に俺はきみに何をされてもかまわないんだ。俺はきみの味方で、この車の中は盗聴不可能で何でも話せる領域だ。それだけ覚えていてくれればいいから」


 車はサービスエリアに入り、駐車場の隅で停車した。私は車の中でえぐえぐと泣きつづけた。ケイさんが大きな掌で背中を「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と撫でてくれる。しかしここは観光地へ向かう家族連れやカップルでにぎわう山の中のサービスエリア。人目が多くさすがに気まずい。


「このおっさん、女泣かせてるよ」


 といわんばかりの非難に満ちた視線が突き刺さる。


「ごめんなさい、ほんとうにごめんなさい」

「気にしなくていい、ほんとにいいから、慣れてるし」


 慣れてるってなんだろう。


「みちるさんとかお久さんってほら、わりと当たり方がきついから。特にきみに関することは厳しい」

「ああ、不機嫌メガネ」


 ぷ、とケイさんが噴き出した。


「ほんとだ、不機嫌メガネだな」

「何をしてもいいって、ほんと?」

「いいよ」

「じゃあ、キスしていい?」


 片手はハンカチで私の顔を拭い、片手は背中を支えていたケイさんが赤面して固まった。背中に当たる手の爪がにゅにゅにゅ、と伸び始める。


「それはちょっと……」

「何してもいいっていったのに」

「駄目じゃないんだけど、詩織、嬉しいんだけど誘わないで。俺、針毛で車のいろんなところ壊しちゃいそう」


 それは困る。


「じゃあ、キスしない」

「なんでだろうなあ、車は無事なんだしそれでいいんだけど、俺、自分がすごく駄目な気がする」


 目の前のケイさんのざっくりした生成り色のセーターに顔を埋める。車外はぴかぴかの晴天。日光で暖められたケイさんから甘く粉っぽい獣臭がほのかにまじった日向のにおいがする。


「私、ケイさんのこと信じたい」

「俺もそうしてほしい」

「でも、私がしようとしていることを、ケイさんは受け入れられないと思う」

「どうしてそう思うんだ」

「だって……今でも十分に身勝手だし、ケイさんのこと利用しちゃってるようなものだし、その上に分かってくれっていえない」


 ケイさんは私をぎゅうっと抱きしめたまま、ぶるりと体を震わせ進みかけた獣化を解いた。


「何をいいたいのかよく分からないんだが、もしかして婚約の件か?」

「……それもあります」

「それがその、やはり婚約は無理だと思うんだ」

「味方だとか何をしてもいいとかいうわりにいろいろと制約が多いですね?」

「あっ、違う、怒らないでその、話聞いて」

「……怒っていません、聞きましょう」


 聞いた。何といえばいいかまあ、愛は感じる。


「私の寿命が縮まるから子どもはつくれない、と」

「そうだ」

「子どもをつくる行為に至れない以上、結婚はできない、よって婚約できないと」

「そういうことだ」

「じゃあ、私が他の男の人と子どもをつくって寿命を削るのは構わないんですか?」


 ケイさんは涙目になってふるふると首を振った。嫌なのか、嫌なんだな? ちゃんといえよ、ふるふるしてないで。


「先日のみちるさんのオファーはそういうことです。あなたが拒否すれば、『播種計画』との合致度合いは低くても社会的条件が良いと白梅が見なす他の男性があてがわれるだけです」

「それは、それだけは……でも、俺との行為に比べれば危険がないのは確かだ」

「どういうことでしょう? もしかして獣化の件ですか?」

「……そう。その、俺、いざしようとすると危ないから」

「それは白梅の治癒支援が加わればなんとかなるんじゃないんですか?」

「その治癒が間に合わないくらい酷くなっても俺が自分を止められずにきみを殺してしまう、そういう事態が容易に想像できるから嫌なんだ」

「それって要するに現象としてはED……」

「こら。いっていいことと悪いことがあるぞ。……試してみるか?」


 ケイさんの大きな体がのしかかる。見下ろす目にたたえられた光にいろいろな感情が宿る。からかわれたことに対する反射的な怒りや憤り。その反発を受け入れ赦してほしいと思う甘え。情欲。私を支配したいと思う心。独占したいと願う心。

 そんな気持ちが暴風となってきっとあの美しい風穴の中を吹き荒れている。外側に漏れだすほどに。そしてその欲望を私に押しつけることなく抑えようと、自制しようとしている。


――愛しい。


 抑えてくれて「ありがとう」といえない。無理をさせて「ごめんなさい」はたぶん、いちばんこの場を収めるのに合っている。でもそれは私の心を表す言葉ではない。自制しなくていい、思いを遂げられればどんな結果だって受け入れる、構わないなどとといえない。再び涙があふれる。


「だいすき」


 ケイさんの頬に、そっと口づけた。

 抱き寄せられ、すりすりと頬ずりされる。気持ちいい。ケイさんは自身が涙もろいからか、私に「泣くな」とか「泣きやめ」などといわない。ただこうしてあたたかく包みこみ、撫でて落ち着くのを待つ。ふと、ケイさんのなでなですりすりが止まっているのに気づいた。んんん?


「昼間っからいちゃいちゃしてんじゃねえよ」


 といわんばかりの非難に満ちた視線が突き刺さる。そうでした。ここは公衆の面前でした。白梅荘と違うんでありました。 ルートとプランだけ確認してそそくさとサービスエリアを後にした。真昼間、観光シーズンともなるとかなり人目があって恥ずかしい。普段どれだけオープンなのか改めて思い知った。この三カ月でずいぶん慣れてしまったなあ。この大きい人のストレートなふるまいに。


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