第十五話 梅が香
乙女のみなさん、案外忙しい。おばあちゃん乙女真知子さんも例外ではない。ほとんどお休みがない。最近知ったのだけど真知子さんはマルカワカンパニーの現役会長でいらっしゃる。マルカワといえば東京育ちの私でも耳にするこのあたりの地元財閥ではないか。真知子さんは「多々良が浜のおしん」と某放送協会伝説の朝ドラになぞらえて賞賛される女丈夫なんだとか。まさかそんな雲の上のお方だとはぜんぜんまったく毛ほども存じ上げなかったよ。
「会長っていってもお飾りなんですのよ」
と笑っていたが真知子さん、ほんとうに忙しそうだ。まとまったお休みがほしい、お休みがとれたら大好きな恋愛小説の舞台をめぐってみたい、なんていっていてセレブって大変だと思いましたですよ。マルカワのみなさん、会長に楽させてあげて。お願いだから。
その真知子さんと理沙嬢について話し合った。ほんとうは本人抜きで話すべきでない。分かっているけれど、経験の少ないもの同士で判断がぐらつくぐらいだったら――まずパートナーである対の乙女と話して情報を整理したかった。真知子さんの人生経験、乙女経験を頼りにしたかったのである。
「本来乙女の力を得ることはとても誉れ高いことなのです。でも――力が強すぎて理沙には荷が重かったようですわ」
本人が自身の力を受け入れられずコントロール不可能になっただけでなく、ご家族も支えきれなくなった。変質者が家のまわりをうろつき、不法侵入するのでは落ち着いて暮らしていられまい。白梅荘で乙女契約を結ぶことで異能をコントロールできるようになれば、とすがるような気持ちで愛娘を預けたのだろう。ご両親の気持ちを考えるといたたまれない。
「乙女となって異能は逆に強まってしまいましたけれど、この白梅荘で暮らしはじめて理沙はやっと笑顔を見せてくれるようになりましたの」
理沙嬢を守るのは乙女たちだけではない。神話や伝説をそのまま信じているわけではないが、白梅荘近隣の住民は昔から連綿と続く土地神の守人の館を重んじてくれる。そのことが陰に日向に私たちの安全を支えてくれている。しかしこうしたサポートにも限界がある。
「乙女の力を使いこなすことができればよかったのですけれども」
つらそうにうつむく真知子さんは疲れているように見えた。
理沙嬢の異能は魅惑。相対するものの心を惹きつけ、虜にする力だ。物心ついた頃から無自覚に力を発揮して理沙嬢は人を惹きつけ、自身も異能に振りまわされてきた。頼みの乙女契約も異能を強めるだけでコントロールするすべを得ることはできなかった。このままでは駄目だ。理沙嬢が人生と向き合えるようになるために私にはできることがある。封印の解けた記憶、その中に乙女契約解除の方法がある。
そのことを話す前に真知子さんに乙女契約解除について訊いてみた。真知子さんは愛らしく首をかしげ「うーん」と考えこんだ。
「白梅の乙女には決まりがありまして、自由に結婚したり子を産んだりできませんの。先々代様より前の時代は違ったかもしれませんが、千草ちゃんの代になって乙女は出産適齢期を終えたものばかりになりました」
理沙を除いて、と真知子さんは曖昧に微笑んだ。
「子どものうちから奉公に出る時代ではなくなったこともあったのでしょうけれど、乙女として白梅荘で保護しなければならないくらい異能が顕現する娘がいなくなったことが要因として大きいのだと思いますわ。乙女――力ある者の数が減っていますの」
遠い昔に滅んだというハイブリッドチルドレン。不規則に発現する遺伝形質。薄まりながら広がるハイブリッドコード。
――なるほど。力ある者、ハイブリッドコードキャリアが減っているというわけか。
みちるさんから聞いた話と合致する。
「わたくしもこうして出産や子育てを終えた後に乙女になりました。前例がないわけではないと聞いていますけれど少ないそうですわ。出産や子育てを終えた女では勤まらない仕事もあるとかで。でもわたくしが乙女契約を結んだ期間に乙女に対してそのような義務が課されたことはありませんの。ですから具体的な内容は存じませんわ」
やはりおば様の代は白梅荘と乙女にとってイレギュラーな時代であったらしい。
「千草ちゃんが生きていたらもっと詳しいお話を聞けたと思うのですけれど。わたくしではお役に立てなくて申し訳ありませんわ」
「そんなことはありません。とても助かります」
すまなそうに肩を落とす真知子さんに私は乙女契約の解除方法を説明した。幼いころの記憶に頼るしかないが手順はこうだ。
(一) 頭部の所定の位置に穴を開ける。
(二) 脳内に埋まる乙女の契約錠を引き抜く。
(三) 引き抜いた契約錠を破壊する。
この三点の手順に刃物や鉗子など金属性の器具を用いないこと、さらに場所とタイミングが重要であること、そのほかの詳しいことが分からない。
真知子さんは真っ青になった。
「そんな危険な……」
「はい。乙女契約は解除を前提としていないのでしょう。ですからまず真知子さんにお訊きしたかった。ここまで危険な措置を理沙嬢に――」
私を見上げ包みこむような笑みを見せ真知子さんは
「希望するか否か、理沙次第ですけれど――詩織ちゃん、契約の解除がいやなんですのね」
といった。
正直なところ、生命の危険を冒してまで敢行する措置ではないように思う。乙女契約、表向きは白梅荘の賃貸契約であるそれを継続しつつご両親の元へ帰ればいいのではないか。それでも理沙嬢の意志を尊重するつもりだ。誤解は解いておかねばならない。
「違います。乙女契約の解除がいやなのではありません。その方法が危険であることがいやなのです。必要があるならば、理沙嬢にその意志があるならば、何が何でもやり遂げてみせます」
真知子さんは「頼もしいわ」と私を見上げ、輝く笑みを見せてくれた。
その輝く笑みは私を後押ししてくれた。理沙嬢と乙女契約の解除、そしてその方法について話した。迷った末に理沙嬢は契約の解除を選択した。さらに白梅荘の住人全員に集まってもらって同じ話をした。全員難しい顔をして考えこんだけれど、理沙嬢の気持ちが変わらないことを知ると一様に「反対しない」といった。
ほんとうは反対してほしかった。全員の精神に干渉して無理矢理にでも反対させたかった。みんな理沙嬢との時間を最大限に取っているのが分かってつらかった。惜しみながら時を過ごすのがつらかった。
乙女契約解除の儀式、その詳細を誰かが教えてくれるわけではない。
場所とタイミング、祖父のいっていた儀式の条件を万全に持っていくためにできる限りのことをしよう。そう決意した。当たり前のことだけれど。
もう事態が動いている以上、タイミングはどうしようもない。待ってくれと頼めばきっと理沙嬢だけでなくみんな待ってくれる。「いつならいいの?」と問わず待ってくれる。私が責任をもって決めなければならない。だから
「明日以降一週間以内で。理沙嬢とご家族の都合のよい日を一日ください」
そう指定した。
記憶にある祖父と祖母の儀式は昼間だった。当時住んでいた家でないどこか、古くてぼろぼろの畳敷きの部屋だった。
こんな血塗られたものであっても家族の大切な記憶だ。しかし今は生きてここにある大切な人のために万全を期さなければならない。条件を同じにするか違えるか、迷いに迷った。先に日取りが決まってからも迷った。日々、理沙嬢が吹っ切れたように明るくなっていくのを見ていて「やっぱり変更しましょう。延期しましょう」と本気でいいたくなるくらい迷った。
夜更けにひとり、矢のような針を撫ででいて心が決まった。天啓のようにそれでいて私の心にもともとあったかのように自然に決まった。夜だ。やはり夜にしよう。
場所は白梅荘の中にする。そこまではすんなり決められた。
幼かった私は白梅荘に来たことがなかったはずだが儀式を見ている。だから外でも儀式は可能なんだと思う。しかし私自身があまりに頼りない。
――白梅、お前は知っているはずだ。
どんなに化け物じみていようとも白梅の老木の他に頼る者はないと思った。だから場所は白梅荘の敷地内。
ストーカー騒ぎがおさまり、お久さんが厳しく警備をしていてもなお怪しく不穏な気配の主はしばしば潜りこんでくる。しかしぬらぬらした気配の帯が庭や離れのあたりをべとべととにおいで汚していても母屋には入れないらしい。母屋の窓に気配が張り付くことはあってもその窓が開いていても、なぜだか分からないが屋内には入ってこなかった。その不浄の気配が入りこまないなら儀式の場所は白梅荘の母屋の中、且つ白梅の木と最も近い場所でなければならない。
初日にしこたま契約書にサインした小応接室は白梅の木とロケーションは近いもののなぜか接続が切れていると感じた。白梅の気配が薄いのだ。
屋敷内を探しまわる。頼りは自分の感覚のみだがそれでも何もないよりはいい。厨房の食料庫まで探してみたがプライベートエリアや生活エリアにふさわしい場所はないように思われた。
「どうしました」
目の色を変えて屋敷内を探しまわる私にケイさんが尋ねた。今更「儀式の場所を探している」とはいいづらい。そんなことは日程が決まる前に確定して当たり前なのだから。でも嘘はつけなかった。
「探しましょう」
ケイさんは屋敷内の部屋の鍵をすべて持ち出した。
ありがとう、そういいたい。でもいえない。礼のひと言もいえないやつだと思われても。ことばは契約を構成する大切な要素だ。うかつなことはいえない。傍らの大きい人も乙女なのだから。
鍵を開け、部屋のにおいと気配を確かめ、また鍵をかける。
白梅荘に引っ越したばかりのころに今日のようにケイさんと部屋を開けたり閉めたり、出たり入ったりした。ケイさんのうなじフェチが発覚したあの日からまだひと月しか経っていない。それでもうっすらと積もる埃がまとまった時間の経過したことを示す。もっと昔のことのよう。あのころは理沙嬢や他のみんなと仲良くなり始めていて、家族を失って以来長く続いた独り暮らしの寂寥が遠ざかったことが無性に嬉しかった。そして隣に立つこの人ともしかしたら、きゃ、などと浮ついてわくわくした気持ちを抱いていた。並んでいっしょにご飯を食べる、洗濯物を干す、皿を磨く、そんなことすら楽しかった。
――遠い。あの日々が遠くへ行ってしまった。
感傷にひたっている場合じゃない。理沙嬢の命と未来に関わることなんだ。歯をぐぐ、と食いしばる。次の部屋の扉を開けてにおいと気配を確かめ、また閉める。それを繰り返した。
もう確認してまわる部屋も残り少ない。大広間の前に立ったそのとき、
「ここです」
扉を開けずとも求めていた場所がそこだと分かった。
ケイさんが「念のため確認してみましょう」と鍵をまわすと、かちりという音ともに扉の向こうから梅の花の香りがした。ここは多々良が浜駅に向かって高くなる丘の手前で裏庭に面した敷地の中心部に位置する。前庭にある白梅の老木から遠い場所だから後まわしになっていた。重い扉を押し開ける。埃が積もっていたり、芳香剤が撒かれていたり、はたまた中に梅の木があったり、妙な幻影が見えたりするのかと思いきやそうでなかった。
「きれい、ですね」
そこは家具も調度もないだだっ広く白い清浄な空間だった。
中に入る。ケイさんも後からついてきた。梅の花の香りは開錠したときにすぐ消えてしまった。窓の外側にある鎧戸もぴったりと閉じられているというのに、内部は灯りをつけずともうっすらと明るい。誘われるように広間の中心へ向かった。
「ここです。儀式はここで執り行います」
感じる。ここがいちばん近い。白梅の老木――いや、老木を動かしていた何かとつながっている。間違いない。
他に隣のサロンを儀式前の面会の場としてセッティングすること、潔斎や儀式そのもののスケジュールなど、すぐに当日の細かい予定が決まっていった。
その夜。理沙嬢の家族に当日の予定について知らせを出した。すぐに先方から諾、と返答があり正式に儀式の執行が決まった。
儀式前日。私は白梅の老木のもとへ向かった。
「白梅、なぜおまえは教えてくれないの? 失敗がゆるされないというのに」
私は左手の薬指を口に含み、指先を歯で食い破った。血の滴るその指を差し出す。
ずぞぞぞぞぞ。
梅の枝が私の左腕に巻きつき、血を舐め啜る。
――来た。
饐えた気配の主だ。悪寒が私を揺さぶる。しかし顔に出さない。ちらりとにおいではなく気配の方向を見遣る。
「……白梅の当主、アンタは血のにおいまで芳しいな」
今日も姿を見せない気配の主の位置を探った。この男は私を侮っている。攻撃力も防御力もない、ただ心に働きかけ撹乱するしか対抗の術を持たない私を侮っている。必ず来る。今日も私にたわむれかかるために私の背後を取る。気配、におい、音。それらが必ず背後に集まる。自分の血のにおいが強すぎて嗅覚がうまく働かない。においの位置がぼやける。今日もあいつのにおい、気配、音がばらばらに動く。でも必ず。
――早く、早く来い。私をなぶりに来い。
左手を白梅の木にゆだねたまま右腕の袖を揺すり、握る。よし、大丈夫だ。右手の指も傷ついたけど、大丈夫。左手から血を流しているのだもの、問題ない。ばれないはずだ。
「血か、いいねえ。……血がたくさん流れて……ああ、待ち遠しい。なあ、白梅の当主」
背後に気配と音、濃い獣のにおいが集まりはじめた。――来た。もっともっと、確実に。さあ、もっと近くへ。
「ふふふ」
――今だ!
右手で握りしめた針を振り向きざまに薙ぎ払う。
「詩織さん」
針を握った私の手を、大きい人が掴んでいた。
違う。間違えた。饐えた気配は私を嘲笑うように茂みの影を移動し、消えた。
「すみません。違うんです、違うの。すみません」
右手から針が落ち、私はがっくりと膝をつきうなだれた。梅の木はとうに元に戻っている。私の右手を掴んだままのケイさんもいっしょに膝をつく。
「私、なんてことを……すみません。ほんとうにごめんなさい」
私が握っていた針はケイさんの胸にあともうひと息で届きそうだった。恐ろしい。自分の手でこの大きい人を殺そうとしていたなんて。私はおぞましいだけでない。恐ろしいものになり下がった。
――なぜこんな間違いを。
ケイさんは私の身体にその太く長い腕をまわし抱き寄せた。ついさっき私が刺そうとした胸が目の前にある。変わらず親しげな日向のにおい。
「詩織さん、いいんです。俺は刺されてもかまいません」
「違う、違うんです」
「この針は」
どうして話を聞いてくれないの? 私は怒りに震えた。
――どこだ。応えろ。
私は波を発した。波が私の意識を検索する。怒りで混濁しているのに私の精神干渉波はあやまたずケイさんの心の表層に残した意識の欠片を探し当てた。ソナーのように波が返ってくる。私は意識の欠片を思い切り揺さぶった。干渉波が空間を震わせる。
ずぞざざざざ。白梅がうなる。
「離れろ、私に触るな!」
雷に打たれたように目の前の大きい人は凍りついた。なぜ自分はこんなことをしてしまうんだろう。失敗して間違えて、うろたえてばかり。膝近くに落ちていた針を掴み、私はその場から逃げた。




