第十六話 冴え返る
儀式当日。私は理沙嬢の家族を白梅荘に招いた。
母親は真知子さん、理沙嬢ふたりとよく似ていて小さく、それでいて異なる雰囲気をたたえていた。顔立ちがそっくりなだけにどうしてこんなに違うんだろう、と首をかしげたくなる、そんな美しい人だった。
その母親に、理沙嬢そっくりな幼児がまとわりついている。こまっしゃくれた口を利く、そんなところも理沙嬢そっくりでほほえましい。しかし私が話しかけようとすると、母親が身体で阻んだ。
父親は色素の薄い、日本人離れした美貌の持ち主だった。身長が低く、頭頂部が異教の聖人そっくりにつるりとはげている。マルカワカンパニーのナンバーツーらしくいかにも切れ者という感じに見える。それでいて仕事ができるだけでなく家庭でもよい父親で夫なのだろう。穏やかに控えめに接する彼を家族の誰もが頼りにしている。それが家族の会話の端々に見えて好ましい。ただ真知子さんに対してだけほんの少し、彼が卑屈に接しているように見えるのが気がかりだった。私には関わりのないことであるが。
乙女契約の解除とその方法について私から説明をするとご家族、特に母親から強く拒絶された。当然だ。危険があると分かっていてそれでも、とほいほい承諾する親はいない。そう思ったのだがどうも違うようだ。
「私どもの娘を乙女として献上するにあたり何か不都合があったのでしょうか」
献上ということばに違和感を覚えたが、こだわって話が進まないのも望ましくない。そこに触れず返答した。
「不都合など、そのようなことはありません」
「理沙は乙女をやめさせられ、母はいずれ寿命を迎えてしまい、マルカワには乙女がいなくなってしまいます。会社のためにそれは困るんです。理沙を乙女としてここに置いていただくわけにいきませんか」
正直なところ、こんな反応は想定外だった。てっきり乙女として取り上げられた娘を返してほしがるものだとばかり思っていた。
「佐和、やめなさい。お義母様の寿命など滅多なことをいうものじゃない」
「でも、あなた。理沙さえ我慢してくれれば会社は」
「佐和」
理沙嬢がうつむく。
「理沙があの議員の話を蹴ったのがいけないんですか?」
「お嬢さんはその話をご存じない」
「今からでも議員の先生にこちらからお願いすれば」
身体がぶるぶると震える。
駄目だ。鎮まれ、しずまれ。このままでは衝動的に心の壁をこじ開け、あの母親の精神をいじってしまう。そんなことをしてこの人の心に傷を残してしまってはならない。鎮まれ、しずまれ。
声が震えるのを抑えられない。
「その……お話はもう終わっています。お嬢さんの耳に入れる必要もない、現実味のない話です」
「でも、ご当主様、白梅様、それでは私ども家族、会社の従業員は今までどおりというわけには」
真知子さんがさえぎった。
「おやめなさい、佐和」
静かであっても威厳に満ちている。従わずにいられない、そんな影響力を持った声だ。
休憩にしましょう、とみちるさんが提案していったんお開きになった。会見場となったサロンに理沙嬢の母親、父親、そして真知子さんが残り、激しくいい合っている。
理沙嬢は
「しおちゃん……」
私の胸もとにすがりついた。
以前砂浜でしたのと同じように――ああ、もうずいぶん昔のような気がする――ケイさんにしてもらったように「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と背中をさする。
まだ記憶の錠前が外れていなかった、異能が目覚めていなかったあのときと違い、無自覚に彼女の心に干渉するわけにいかない。ことばを、口調を慎重に選びながら話す。
「理沙嬢、儀式を中止してもかまわないんですよ」
「しおちゃん、ボク、もう決めたの」
こうして抱きしめるのも最後かもしれない。理沙嬢の乙女としての残り時間は少ない。そう思うとやりきれない。乙女としてだけでない。もし儀式が失敗したら――身体の奥が恐怖で冷えるが無理矢理懼れを抑えこむ。やってきたケイさんに理沙嬢をゆだねた。
「理沙嬢、今のうちに休んでおいてください」
「詩織さんも」
「はい、そうします」
逆らわない。視線を交わさず、お互いに触れず、すれ違う。
この大きい人のことを、私はほんとうに好きになってしまったんだと思う。多分、彼もまた私のことを好きでいてくれたと思う。昨日、そう思った。こうしてひと月ともに過ごして、やっと。
でも私は昨日、彼を殺そうとした。
ほんとうは間違えただけだったけれど、私がやろうとしていたのは命のやりとりだ。自分を刺そうとした女に好意を抱く男なんぞいない。当然だ。万が一、優しい大きい人が赦してくれても私が自分を赦せない。
遅かったんだろうか。そんなことはない。出会ってひと月、短いくらいじゃなかろうか。
――でも。
初めて会ったあの日なら、引っ越してすぐのあのころならまだ踏み切れた。いや、もうよそう。今はそんなことに気を取られている場合じゃない。
よそう。見なかったことにしよう。いったんはそう思ったんだがいやいやいや、ちょっと待ちたまえ。これはない。看過してはならない。なぜ今このタイミングで
「はげ」
なんでしょうか。
私は譲ってくれってひと言も頼んでないけどさ、丸を数えるのを途中で目が放棄するほどの相続税を払って手に入れた、この白梅荘って歴史的建造物レベルの豪邸だと思うんだけど、何なの、この壁や柱の低いところに書かれた
「はげ」
の文字。
「ゆ、油性ペン……!」
指でこすっても薄れもしないそれを前に私は仰け反った。油性インク特有の有機溶剤のにおいを追うまでもない。眼前におよそ五十センチ間隔で
「はげ」
いたずら書きが点々と並ぶ。ちょっとおおお、誰かこのお子様、止めてえええ!
そうだよなあ。「ご家族でおいでください」といわれたら全員連れてくるよねえ。でもさあ、お子様の持ちものくらいは把握してほしいよ。油性ペンかよ。そりゃあねえ、お姉ちゃんの生命の危機をめぐる修羅場だからね、大人はそっちにかかりっきりですよ。お姉ちゃんだって当事者だからね、しかも修羅場の主役ですよ。見つけちゃったからこうして背後で仁王立ちしていますがね、私だって当事者だよ。正直、糞ボウズの相手をしている暇なんかないわけ。おっと、いけない。血統はこの家で珍しい直系白梅様だけど、育ちが育ちなものでついつい地が出ちゃったよ。
ところでセレブリティの皆さんはこういう事態を前にどう対処なさるのかしら? ちょっと誰かマジで今すぐ教えて、「やめんか、糞ボウズ」くらいしか思いつかないんですけど!
「何か用? 後ろに立たれるのはちょっといやだな。知ってる? 背中のすぐ後ろに立つのは悪い人なんだよ?」
知ってる。
そうだな、確かにそうだ。あの饐えた気配の主もそうだ。ケイさんもすぐ背後に立つときはだいたいうなじ狙いだった。昨日がそうだったのかどうか、分からないけれど。
「そうですね。あなたのいうとおりです。背後を取ったこと、それは謝りましょう。ごめんなさい」
そう認めると、理沙嬢の弟くんは意外そうに振り向いた。手に油性ペンを握って。
「えっと女の人、なの? それとも男の人?」
おおう、久しぶりに来たクリティカルヒット、男扱いか。白梅に血液ちゅうちゅうされ健康体になって以降男に間違われることはなくなったんだけどなんでそうなるかな?
「そうですね、結婚していないのでおねえちゃんって呼んでください」
「やだ。ボクのおねえちゃんは理沙おねえちゃんだけだもん」
胸を衝かれた。
そうだ。理沙嬢はこの子のたったひとりの姉なのだ。確かに簡単に「おねえちゃん」と呼ばせるわけにいかない。幼子とはいえ、歴史的建造物にちょっとやそっとでは消えない爪痕を残す戦慄の狼藉者であるとはいえ、理沙嬢の大切な家族なのだ。
男扱いはちょっと、もとい、絶対にいやなのでおばちゃんでいいや。三十五歳、まだ若いと自認していたがそろそろ苦しいか、年齢と呼称に関わる問題に大胆に踏みこまねばならない。勇気をもってことに当たれ、ショックを受けてももう退くな、おまえは大人だ、詩織。
「じゃあ、おばちゃんと呼んでください」
「分かった、オバちゃんね」
んん? なんでしょうか? その小場とか小庭とか、とにかくそういう姓に無理くり「ちゃん」づけさせたみたいなイントネーションは?
「オバちゃんは女の人なの? 男の人なの? それともどっちでもないの?」
ええええええ、そこから?
儀式前の貴重な残り時間を年齢と呼称どころか、性別と呼称に関わる問題をクリアすることに費やす羽目になった。よくよく話を聞いてみるとどうもこの幼子の中で女性とは豊かな胸部をしていなければならないらしい。胸部にたわわなサムシングがない者をオートマティックに女性でないと分類しているそうだ。ああ、確かに真知子さんも理沙嬢も、と風呂で見たサムシングのたわわっぷりに思いを馳せる。先ほど感情的になっていた母親も低身長のわりに巨にゅ……ちょっと待て? そのエリアのゴージャス感が極度に低い私は女じゃないとでも? しかももともと問題視していた
「はげ」
いたずら書きの件が解決でき……
「ちょっとちょっとちょっと、ストップ、でござるよおおお」
もううろたえすぎてことば遣いをどうしていいか分からない。そうこうしているうちに目の前の幼子の
「はげ」
いたずら書きが儀式の会場である大広間に迫ってきた。いけない。そこは駄目だ。そこは理沙嬢の儀式のため清浄に保っておかなければ……!
――ごめんね。
できるだけそっと、揺り動かさないように心に触れる。
幼子の意識の奥底から、自分を優先されないことに対する不満よりも、おなかがすいたこと、喉が渇いたこと、肌寒いこと、それらに関する不満よりもすべてが絡まってもう何がどう不満なのか分からないことに対する苛立ちよりも強く激しく、喪失への不安が噴き出している。この子は学齢前だろうか。こんなに幼いのに事態を正確に把握し不安と戦っている。
「やめなさい」
廊下に膝をつき、幼子を抱きしめる。
「ここから先、きみの姉上のために清く保たなければならない。分かる?」
幼子と目を合わせる。目に、心の中に、理解の色が広がる。そうだ。干渉しなくてもこの子はちゃんと理解する。賢い子だ。微笑み合った。
「あなたは誰?」
「私はきみの姉上に『しおちゃん』と呼ばれています」
「しおちゃん。あなたが、しおちゃん」
「そう。知っていましたか」
「うん、おねえちゃんから聞いてるよ」
なぜいたずら書きを、と訊いてみると意外な答えが返ってきた。
「ここのみんな、すんごく大変そう。緊張してるんだよね?」
「きんちょう」
「そう。おとしゃんはおばーちゃんと会うとき、とても緊張するの。おばーちゃんがとても偉いひとだから、なんだって」
「ほうほう」
「緊張ってね、すごく悪いんだよ。そいつがやってくるとおはなしをちゃんとできなかったり、いいたくもないことが口から出てきたりして、けんかになったりするの。緊張っていけない、悪いやつなんだ。だからおまじないでどっか行っちゃえーってするの」
それが油性ペンで書いた
「はげ」
なのか。なるほどその状況だったら
「はげ」
で脱力するよなあ。確かに私も「今はそれどころでは……!」なんて鼻息荒かったわけだがすっかり「ぼへえええ、なんてことするんだ、糞ボウズ」だもんなあ。
「そうするときみはこの屋敷の中にたくさんの悪いやつ『緊張』がいるから退治しているんですね」
「そう、そうなの!」
幼子はにこにこしている。理解した。善意に衝き動かされて至った犯行である、と。じゃあ仕方ない。赦す。
「この家の『緊張』はたっぷり退治してもらいました。もうおまじないはいりませんよ」
こういうことはひとんちでなく自分の家でやれ、幼子よ。というよりお願いだからもう勘弁してくれ。しおちゃん庶民だからこの「はげ」地雷敷設でどれだけ資産価値下がったのかまったくぜんぜんさっぱり分かんない……!
「しおちゃんの『緊張』も退治しないといけないと思うよ。でもしおちゃんは『はげ』じゃないね」
当たり前だ。
「しおちゃんは、うーん、ひんにゅ」
もうやめてー。緊張はどうにかなっても、心の別の部分が削れるから。
やめてやめて勘弁してー、と笑い合っていると、いきなり横っ面を張られた。床に倒れる。あ、いかん、幼子を巻きこむ、と思ったら高価そうなワンピースに身を包んだ母親が幼子を抱いて立っていた。
「白梅様、今度はこの子を連れて行くつもりですか」
痛みよりもまず、幼子が巻きこまれずにすんだことの安堵が先に立った。よかった。私なら大丈夫。唇が切れてしまったけれどすぐに治るし。びっくりして目を丸くする幼子に「だいじょうぶですよ」と微笑みかけると、
「なにがおかしいのっ!」
再び頬を張られた。儀式前にこのあたりを汚したくなかったので少しずつ後ずさりする。どうしようか。どうしたものか。興奮しきった危険な母親に干渉波を浴びせるしかないか。
幼子の前であまり気が進まない。しかし、あんなに私を和ませてくれた幼子には悪いが仕方ない。残り時間も気になるので少々乱暴に、と決意したところで
「佐和。何をしているんだ」
父親が理沙嬢を連れて現れた。私は後悔した。躊躇せずに母親に干渉して黙らせればよかった。感情的になって混乱している母親はいらぬことを並べ立てはじめた。
「理沙は物心ついたころから賢かった。でも賢すぎた」
「美しすぎた」
「私は乙女になれないのにこの子は乙女としてちやほやされる」
「手がかかる子どもだった」
「私の手には負えなかった」
「女の子なんか、産むんじゃなかった」
「だから自分で育てるのをあきらめて乙女として献上した」
「今さら返されても、困る」
甲高く調子の外れた節回しが途切れなく続く。呪詛の歌だ。視線は私に向けられている。いい、かまわない。私を呪えばいい。呪われても仕方ない、私はそんな呪詛の歌にふさわしいおぞましい者だ。しかし、彼女の呪詛は私だけに向けられているわけではない。
――わたしをうけいれない。
――わたしをみとめない。
――わたしをいちばんだといわない。
白梅荘の当主である私だけでなく、娘の理沙嬢を、母親を、夫を、共に生活を支え合う人々の集合体であるマルカワカンパニーという企業を、息子を、世界のすべてを呪っているように聞こえる。
私は立ち上がった。さっき切れた唇を手で覆い隠す。身長の高い私が立ち上がり覆いかぶさるように近づけば低身長の理沙嬢母からすると心理的圧迫になるだろう。彼女に歩み寄る。
――歌って気が済むならばいくらでも歌えばいい。
――しかし、今はそのときではない。
理沙嬢の母に
「ストップ!」
と干渉波を送った。
口を開けたまま凍りつく母親の姿に幼子が驚いている。ほんとうに申し訳ない。今は儀式を優先したい。理沙嬢に
「すみません。弟君をお部屋へ連れて行ってくれませんか。そろそろおねむのようです」
「うん、分かった」
母親の腕から弟を抱き上げ、理沙嬢はその場を去ろうとした。真知子さんが気の抜けた表情になった娘を連れて去る。しかし幼子が「待って」と姉を止めた。とことこと私のもとへ来た。
「痛かった? ごめんね、しおちゃん」
「だいじょうぶですよ」
ばあ、とあやすように口もとの指をばらりと開いて見せた。
「ほら。もう治っているでしょう? 謝る必要はない。きみが悪いんじゃありませんよ」
傷が癒えているのに驚いた幼子は安心したように笑うと
「おとしゃんにおまじないしてから寝るね?」
と父親のもとへ駆け寄った。いや、そのおまじないは「緊張」は退治してくれても心の別の場所をえぐるっていうかなんというか、だいじょうぶ?
幼子は父親をひざまずかせると、その頭頂部にちゅ、とキスして素早くいたずら書きしていた。あああ、どうしようかなあ。どうしたもんかなあ。
「ありがとう、またあとでね」
愛しげに子どもたちを見送るマルカワカンパニーのナンバーツーに
「申し上げにくいんですが」
と声をかけた。
「ああ、壁や柱の弁償の件でしょうか」
いいえ、頭の
「はげ」
いたずら書きの件で、とハンカチを差し出すと、くるりと色素の薄い瞳を上に向け、彼はにっこり笑った。
「これは効果覿面なのでしばらくこのままで」
この人が家族に慕われる理由の一端を見たような気がした。
「妻が失礼を。痛くありませんか」
優しい父親はするり、とビジネスマンの顔をした。
これはきっとクレーム処理用のお顔だね。私みたいな下っ端経験しかない者の想像を超えて大変なんだろうな。クレーム対応の規模もレベルも。
「ご覧になったでしょう? もう治りました」
「あなたはただの白梅様ではないのですね」
どういうことだろう。
「この家は直系子孫が生まれにくいのだと聞いたことがあります。私が梅田の孫にあたるから、でしょうか」
「それもそうですが、それだけの治癒の能力をお持ちです。ただの白梅様でなく、女性ながら館の主となられたのだと思いまして」
よく分からなかった。治癒の能力と「白梅様」と「館の主」、何がなんだって?
理沙嬢の父は少し考えてから「私も地元の出身でして、家に伝わる話と照らし合わせてそう思ったのですが」と前置きした上で語りはじめた。
「先代の千草様は乙女の中でもたぐいまれな能力の持ち主でいらっしゃいました。ご夫君であられた大吾様の跡を継ぎ白梅様になられましたが、この白梅荘という館には最後まで選ばれなかった、そう聞いております」
「治癒の能力がなかったから、ですか?」
「さあ。いちばん分かりやすい違いはその点ですから」
ふーん。じゃあ、さっきの奥さんの暴走、わざと止めなかったんだ。
「乱暴な確認方法ですこと」
「申し訳ありません。お怒りはぜひ、妻でなくわたくしめに」
「なんで?」
いかん。つい、地が。理沙嬢父が頭を下げたからてっぺんに書かれた
「はげ」
がこちらを向いている。はげ頭にわざわざ
「はげ」
って説明、いらないのに。地が出たついでに「ぷぷぷ」と吹き出してしまった。確かにこれは効果覿面。我慢できず私は腹を抱えて笑った。
「あはははは、すみません、ほんと、ごめんなさい。あーおかしいいい、久しぶりに大笑いしたー。それにしてもほんとうに賢い息子さんですね。将来がほんと、楽しみ」
理沙嬢父が頭を下げたまま固まっている。ややや、これはご夫婦で同じことを考えていると見た。ふ、と苦笑すると理沙嬢父が顔を上げた。
「勢田さん。すべての人間がことばに含みを持たせるわけではありません。今の私のことばは額面どおり、そのままに受け取っていただきたい。私はあなたのお子さんふたりとも、大好きです。だからこそ私はお嬢さんを、本人の希望どおりあなた方ご家族のもとへお返ししたいのです」
「白梅様……」
「それに私の白梅荘はもう、賃貸契約を新たに結ばないのです」
「白梅様、それは、まさか」
「これも額面どおりに受け取ってくださいね」
得意の必殺ポーズ「小首かしげ」をお見舞いしてやったけれど効果のほどは定かでない。理沙嬢父は緊張退治必殺いたずら書き「はげ」に守られているからな。どっちが強いかなんて、勝敗は最初から決まっている。幼子にはかなわない。
そこへみちるさんが
「潔斎の時刻よ」
呼びに来た。いよいよだ。
離れの風呂場へ向かう。
ここはあの饐えた気配の主が活動できる場所だ。せっかく潔斎してもあれに穢されては意味がない。お久さんに対策を打ってもらえばよかった、と今さら見つけた手落ちに考えをめぐらせながら風呂場へ向かうと、離れのまわりに例の美しい針がたくさん落ちていた。長いもの。短いもの。白いもの。黒いもの。縞模様が溶け合い、不思議に白黒分離しているもの。針がたくさん。
ああ。思わず声を上げそうになった。口もとがゆるむのを抑えられない。誰がこんな嬉しいことを。金属が混ざっていると儀式に持ちこめないから、材質不明の針を部屋に置いてきた。それを悔やんでいたので嬉しい。心強い。何か配置に規則があって、それが乱れてしまうのでは、と不安だったけれどしゃがみこんで触れずにいられない。つるりとした質感と黒と白の縞模様、そして好ましい気配。
「嬉しい。とてもきれい。しかもこんなにたくさん。力強くて、ほんとうにきれい」
こんなに力強く美しいものに囲まれればあの汚らしく饐えた気配の主は近づけないような気がした。実際に近くにいるようには感じられない。
――大丈夫、何とかなる。
その夥しい数の針に励まされたような気がした。
合流した理沙嬢とともに念入りに身を清める。
化粧を落としたのち、水をかぶる。早春の、しかも夜。水が温むにはまだ早い。冷たいというよりむしろ痛い。無言のまま、お互いにことばをかける余裕なく水をかぶり続けた。何度も何度も水をかぶるうちにだんだんに慣れ、身体の表面があたたまってきた。
清めるとはよくいったものだ。潔斎することの意味はこうして余計なことを考えない、集中力の高い状態をつくり出すためのものであるに違いない。
――乙女の契約錠は金属の気を嫌う。
根拠はない。しかし儀式に用いないものは極力持ちこまないほうがいい。白一色の大広間に合わせ、服もすべて白。理沙嬢は丈が長くファスナーなど金属部品のない白いワンピース。私は動きのある仕事をするので、白い小袖に白い袴。胸もとが気になって集中が削がれるといけないので白いさらしを巻いた。
私より軽装の理沙嬢は
「しおちゃん、先に行くね?」
と脱衣所を後にした。
余裕を持って動いたので定めた刻限にまだ少し間がある。風呂場の出口で外を眺めた。潔斎が終わったのでもう儀式に関係のないものには触れない。両手を袴のひもに置く。でも見るだけは自由。地面に散らばる針を眺め、微笑む。
「どうしました」
分かっていた。日向のにおいが近づいてきていたから。大きい人がやってきたと知っていた。嬉しい。けれどそれを表に出すことはゆるされない。でも針を眺めるだけなら、それだけなら誰にも止められない。私の異能は精神干渉なのに、その私が心を揺さぶられてしまう。唇を噛み心を鎮め答える。
「美しい針だと思い眺めておりました。儀式の前にどうしてももうひと目、見たかったのです」
針を見たかったのは嘘ではない。ほんとうはもっと大きい人の姿を見たい。でも見ない。ほんとうは触れ合いたい。でもそうしない。私の中の不安があふれてしまいそうだから。
「どなたか存じませんがとても嬉しく、心強かった。この針の力強い美しさが私を、いや、理沙嬢と私を不浄から守ってくれた、そんな気がするのです」
大きい人は声を聞かせてくれない。そのまま針を眺める。
「ここがいちばん無防備で心細い場所でした。こんなにもたくさんの針。どうやって」
もう駄目だ。不安が心から噴きこぼれてしまいそう。身体がわなわなと震えそうになったそのとき、母屋から叫び声が聞こえてきた。
今日、何回目だよ。またかよ、理沙嬢母。いいかげんにしないと怒るよ、もう。また「ストップ!」しちゃうぞ。今度は手加減なしだ。
だいたい幼子はおとしゃんよりもおかしゃんのおまじないをすべきだと思うよ。勢田夫人、おでこに「きょにゅう」と書いてもらえ。いや待て、それは褒めことばだ。うぐぐ、自分で自分の発想に傷ついた。じゃあ、「ひすてりー」とかどうだ。悪口か。でも事実だ。
ぷんすか、どすどす歩いていて改めて気づいた。
――ああ、確かに「緊張」は退治できるね。
夥しい数のあの針と、幼子のまじないがよく効いた。




