第十二話 穴を出づ(三)
緊張が解けてくたくたと、私は梅の木の根元にへたり込んだ。握っていた矢のような針のようなものが手からこぼれ落ちる。
風を巻いて駆けつける気配。
「留守にしてしまって、――すみません」
少々息の上がった、久しぶりにかけられるその声はやはり低く、つややかに響いて私の心を震わせる。
あの青い東雲の朝、臼田青年の母親と対峙し白梅に血を舐め啜られたあの日以来、私はケイさんと話をしていない。表面上何気なくただタイミングをずらして接する機会を失うよう動いていた。おかしいと彼は思っていたに違いない。時々離れたところからじっとこちらを見ていた。私も彼がよそを向いているときにじっと見ていた。離れたところから。
「どうしました」
振り返るとケイさんがすぐ近くで跪いていた。梅の木の根もとでへたりこむ私に手を差し伸べている。大きい人がへなへなになっている私を気遣ってくれているらしい、しかもある程度遠くから駆けつけてくれたらしいとあたりはつくのだが「どうしました」ってのはこっちの台詞だ。ケイさんはまだ春浅いというのに上半身シャツ一枚でしかもボタン全開放というやたら寒そうな格好をしている。身動ぎに合わせ露わになった肌に痛々しい痣や擦り傷が見えて私は慌てた。
「どうしたんですか、この傷」
「これはその――」
膝をついてもなお高いところにある顔があらぬ方へ向いた。
「今日はどちらへ?」
ケイさんの目が泳いでいる。
「お出かけを責めているわけじゃありません」
「はい……その、山へは、花を摘みに……」
花を摘むっておトイレに行きたいとか何とかのあれでなくほんとにお花? さすが乙女だ。姿はおっさんだが心は私なんぞよりよっぽど乙女だ。女子力高い。しかしいくらこのあたりが東京より温暖とはいえちょっと花には時季が早過ぎないかね。
「見つかりましたか」
「い、いいえ。そ、それでちょっと乾布摩擦を」
かんぷまさつ? それで痣やら擦り傷やらをこしらえたのか。何で乾布摩擦したらこうなるんだ。
「――えっと、木の幹で」
「……変わった健康法ですね」
まあ、いいや。よっぽどいいたくない事情があるのだろう。どこで何をしていたのか、どうやって気づいたのか分からないけれど、服を着るのもそこそこに駆けつけてくれたのは確かだ。シャツのボタンを留めてあげながら
「議員先生の秘書さんがいらっしゃいまして――」
留守の間の出来事を報告しようとしてことばに詰まった。
明らかにこちらを陥れに来た男にカウンターを仕掛けてやった。手に入れたばかりの精神干渉の異能を使って。そしてそのことを姿を見せないくせに気配だけちらつかせる正体のしれない男に指摘された。
――いえない。
目の前の大きい人に心惹かれるのは自分の意思でなくもしかしてこの人の異能のせいなのではないかとちらりと疑っているくせに、自分は訪問客の意思をねじ曲げた。
――精神干渉系の能力を持つ女は他人を操るためにそれを使う。そしてそれを楽しむもんだが。
楽しんだつもりはなかった。でも姿を見せない饐えた気配の主のことばを否定しきれない。
足下に落ちた針のような矢のようなものを拾い上げる。これであの饐えた気配の主を刺してやろうと思ったのに。失敗してしまった。
この針は何なんだろう。磨かれた牙のような材質で矢のようでありながら矢羽も鏃もついていない。強いていうならば麦粒と呼ばれる中央がわずかにふくらみ端に向かって細く尖ってゆく篦(矢の棒の部分)に似ているように見える。黒と白の縞模様が不規則に入ったそれは工芸品のようにも、自然にできあがったものにも見えた。工芸品であるならば用途が分からない。だけど美しくて心惹かれる。
ケイさんが息を呑んだ。
「その手の中のもの……尖っていて危ないです。こちらへ」
ケイさんはさあ、と手を差し出した。手の中のものを握りしめ私は無言で首を振る。するとケイさんは私の背後の梅の木に片手をつきずい、とこちらへ身を乗り出した。
「手の中のものを、こちらへ」
近い。顔を背ける私に覆いかぶさり大きい人は耳もとで囁いた。
「俺が、怖いですか」
またそれか。無言のまま横目できっ、と睨みつける。
「その手の中の尖ったものは今の俺より怖いものです。さあ、こちらへ」
揺らぎのない瞳のようで奥に何かがちらつく。大きい人の心に干渉できない。いや、したくない。再び目をそらす。
「いやです。これはさっき私がここで拾いました」
「しかし」
「とてもきれいなものだから手もとに置いておきたいのです」
干渉したくないけれど、これは譲れない。こんな子どものような願いをかなえるためにこの人の心に働きかけるなんて。そんな自分がほんとうに嫌だ。
「お願い。取り上げないで」
自分の目の前にあるものを闇雲にちぎり、周りにまき散らす、そんな中途半端な干渉波がこの人の心にどんな振動を起こしたのか、確かめるのが怖い。プロセスを検証しない発動が効果があるのかどうかすら分からない。しかししばし後、その人はいった。
「分かりました。でも、両端が尖って鋭いので、決してその部分に触らないように。怪我を――ああ、いけない」
ケイさんが目を瞠り私の手を掴む。
「詩織さん、指に怪我を――」
いわれて初めて痛みに気がついた。針の尖端が私の指を裂いている。
「だからその針は危ないと――すぐに手当てしましょう」
「いいんです」
めりめりと傷が塞がっていく。
「いいんです、怪我をしても」
干渉が成功して矢のような針が手もとに残ってもなぜかあまりうれしくない。
「すぐ治るから。おぞましいものが目覚めて、もう前の私じゃないから。だから――」
踏みこむのが怖い。ケイさんの心はさあ来い、踏み入ってみせろ、とばかりに無防備に口を開けている。そこに簡単に入ってしまえる自分が怖い。だから表層だけをなぞり私の意識の欠片を紡ぐように束ねてつくった振動をそっと埋めこんだ。
私は自分が嫌いだ。大嫌い。大切なのは自分じゃなくて目の前の大きい人なのに、分かっているのにそれでも保身を図らずにいられない。
「私に触らないで」
白梅の木がずぞぞぞ、ずぞぞぞとざわめく。私は大きい人に背を向け逃げた。
――ああ、そうだった。
思い出したのは夜、自室でベッドに横になってからだった。ケイさんの心の表層に振動――意識の欠片――を置きっ放しにしてしまった。
――どうしよう。……ってどうしようもないか。
私は梅の木のそばで拾った針を指でそっと撫でた。矢のような長い針はつるつるとしていて、煙るような溶けるような不思議な黒と白の縞模様をしている。とても美しい。やはり無理をいって手もとに置いてよかった。
針を撫でながら苦しそうにしていたケイさんの姿を思い出した。
――嫌われたな、きっと。
力を持っていてそれを振るうことが可能だからといって人の心をいじるなんて。
――優しい人だから。
大きい人は私に気を遣って責めないだろうけれど。私が自分を赦せない。人の意思をねじ曲げるなんて。
枕もとに針を置いて眠るととてもいい夢を見られる。朝目覚めたときになぜか涙ぐんでしまうことが多くてしかもどんな夢だったのか忘れてしまう。でもいい夢なんだと思う。夢の残滓と長い針に大好きな日向のにおいが絡んでいるから。




