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白梅荘顛末記  作者: まふおかもづる
番外編
141/141

運命のひと

『白梅荘顛末記』番外掌編です。第五章その後のお話です。

この掌編は『白梅荘顛末記』を読んでくださった方向けの作品です。作品独自の設定や用語についての説明がない上に冒頭から本編終盤の内容に触れております。閲覧にあたりご諒承いただければ幸いです。



――大丈夫だ。


 ひげがちりちりと焦げ、くるりくるくると丸まって違和感がある。大山猫はごうごうと火柱をあげ燃える陋屋(ろうおく)を振り返った。視界を陋屋が占めていても意識はその向こうの枯れ野に逃れた女へ向いている。


――詩織は助かったはずだ。きっと、大丈夫。


 大山猫にとって運命の女だった。執着もした。


――ソーマだ。


 三十年間己を抑えやっと口にした女の涙は大山猫に深い満足をもたらしたはずなのに苦かった。運命の女の涙が自分を慰め、体内の狂躁を鎮めるに違いない、そう思い込んでいた大山猫はこみ上げる違和感に戸惑った。


――なぜ渇く。


 生命の危機に瀕したからだろう。前脚で鼻先をぐいと拭い、大山猫は黒煙を上げる陋屋に背を向けて林の奥へ身を躍らせた。




 冬だ。川の水も夜風も身を切るように冷たい。炎をくぐり抜けたときに焦げた体毛を川床にこすりつけて落とした大山猫はぶるりぶるりと身を震わせた。大山猫の体内でのったりと気怠く何かが立ち上がる気配がする。朽ち縄だ。


――ああ、やっと。


 大山猫の口から漏れる安堵のため息が白い。体内で暴れまわった滅魂丹も朽ち縄を破壊しつくすまでには至らなかったようだ。安堵半分、残り半分は――失望か。


――この身体から獣化遺伝子がなくなったら……。


 山猫、(とび)守宮(やもり)。体の一部を、あるいはすべてを望むままに獣にして走り、飛ぶ能力。この力を失い、普通の人間になったら――身体は実年齢の百歳相応に老い、無理矢理閉じ込めた朽ち縄は居場所を失い消滅するだろう。大山猫は幼いころに絵本でなじんだ浦嶋子の伝説を思い出した。


――煙のように消える。そういうのも悪くない。

――いや、駄目か。


 大山猫の心に白梅荘の最奥、大広間の床で血まみれになり眠る弟の姿が浮かんだ。大山猫の知る善なるもののすべてが人の形をしたような弟。反目し合っていても大山猫の身体を気遣う少年のころの弟。運命の女を大山猫から奪っていった弟。大山猫が望んでも手に入れられないものをやすやすとその懐に抱き込み幸せなはずなのに自分より先に老いていく弟。愛しくて、憎い。


――解放しました。


 冷ややかなようでいて、弟を見つめる運命の女の眼差しにはぎりぎりで理性を繋ぎ止めているような危なっかしい執着がほの見えた。荒れ狂う感情に翻弄されていたくせに女は弟の身の安全を確保するために何でも、女を愛しく思う大山猫の心さえ利用するつもりでいたのだ。白梅とともにはかなくなる可能性が大きいことを知った上で手を打った女の口から胸もとを己の血で汚しても運命の女に凜とした表情をさせる弟に大山猫は嫉妬した。


――解放しました。


 女のあのひと言で大山猫は理解した。弟は白梅の乙女契約から解放された。白梅はもう弟を守ってくれない。獣化異能の代償に周期的に訪れる狂暴化、いつ果てるとも知れず、いつ一気に老化が進むか知れない長命種の命の期限。何が進化した種だ。だらだらと引き延ばした挙げ句突如命を奪う。いつ爆発するかしれない時限発火装置を抱えているようなものだ。同じ父親から獣化異能を継いだ同じ長命種である弟の時限発火装置を眠らせておくために必要なのは朽ち縄だ。


――解放しました。


 口にせずとも女の冷ややかな目が雄弁に語る。「あなたならばお分かりになるでしょう」と。弟の命を握るのはこの自分だ。今は弱っていて酷使できないが、生命の危機に瀕したときに朽ち縄のあるじの座を譲れば、その治癒支援で弟は生き延びることができるはずだ。今はまだその時でない。しかし、いずれやってくるその日のために自分が朽ち縄を何としても維持しつづけなければならない。


――生きなければ。


 現実にはあり得ない大きさの獣に変身し、人間離れした身体能力を得る代償に狂躁に苛まれ、人目を避けなければならない。しかし生き延び朽ち縄を維持しつづけるためには、ぼろを出さず人の世で生きなければならない。そのために狂暴化を何としても抑えなければならず、抑えるために女が、女の体液が必要だ。


――詩織の涙でなぜ渇きが抑えられないのか。


 運命の女の涙だ。たとえひとしずくであっても数年は狂暴化を抑えられるはず、そう見積もっていたのになぜか渇きが募る。大山猫は泣きたくなった。


――どうすればいい。


 弱り鈍くなったのにそれでも朽ち縄はあるじの身体を修復しつづける。ゆっくり、ゆっくりと傷が塞がり癒えるのを大山猫は感じた。




 温かく、かすかにべとついた、小さな手が背を撫でる。


「いい子、いい子」


 たどたどしく甘ったるい声だ。懐かしいようなそうでないような気配がすぐ隣にある。記憶の中の幼い詩織とはどこか違う。


――この姿を人に見られてはならない。


 その戒めは募る渇きに押し流された。


――これはきっと夢だ。


 渇きが見せる夢だ。夢だから大山猫の姿をした己を幼子の姿の詩織が慰めている。


「いい子、いい子」


 ああ、もどかしい。背中もいいが耳の後ろをその細くやわらかな指で撫でてほしい。大山猫は小さな手に頭をすりつけた。じっと眠っていると思っていた大山猫からの反応に驚いたのか、幼子の手がびくりと止まった。しかしぐじゅり、と(はな)をすすりあげる気配とともに再び小さな手が大山猫をおずおずと撫でる。今度は背中でなく耳の後ろだ。ああ、そこそこ。快さにひとしきり満足した大山猫はようよう幼子へ意識を向けた。かすかに震えているのは寒さゆえか。頬を乾きかけた涙の筋がいくつも伝う。


――いじめられたのか、悲しいのか、迷子になったのか。


 震える幼子を抱き寄せ、大山猫は己の灰色の毛で包んだ。


――泣くな、詩織、泣くな。


 懐でめそめそと泣く幼子のまなじりをぺろりと舌で撫でた。


――ああ、やはりソーマだ。


 なぜ苦いなどと思ったのだろう。大山猫はちりちりと身の内を焦す渇きが遠のくのを感じた。やはり運命の女の涙はこんなにも甘い。ひび割れた地面を慈雨が潤すようだ。大山猫の心は深い満足を覚えた。ああ、そうか。これはまだ幼い、三十年前の詩織の夢だ。夢でもいい。夢であればなおいい。親友である大吾との約束に縛られることなく幼子を抱きしめ、頬ずりし、涙を流す幼子の目もとに大山猫は心ゆくまで口づけた。



 いい夢を見た。こんなにすがすがしい目覚めは何年、いや、何十年ぶりだろう。夢見がよかったからか、身の内を苛んでいた渇きが一掃されている。狂暴化が解けず苦しんでいたといたというのに今は灰色の毛はなくつるりとした人の肌に戻っている。夢で身体のコントロールができるなど聞いたこともないが、今回は何とかなったということか。

 周平は心地よいまどろみにしがみついていた。しかしちゃんと頭では分かっている。ここは燃える陋屋から脱出した後に山をさまよって見つけた浅い洞窟で、なぜかは分からないが身体のコントロールを取り戻して人から獣へ、獣から人へ変身も自在、今は人の姿のつるりとした胸もとに暖かでやわらかく頼りない、甘ったるい何かがいてすりすりと心地よく……。


「――この子、誰だ」


 涙の筋をいくつも頬に貼りつけた見知らぬ幼子が胸もとにしがみついている。周平は真っ青になった。





「周平!」


 呼び鈴を押すかやめるか。手を宙にさまよわせていた周平の目の前でドアが開き、巨漢が姿を現した。もっさりと伸びた前髪の間からのぞく目が驚きに見開かれている。


「あ……」

「よく来た。上がれ」


 上がれもへったくれもない。周平は巨漢の腕に絡め取られ、古びた一軒家に引きずりこまれた。


「よくおいでになりました」


 リビングルームでソファに腰を下ろした周平に詩織が茶を勧めた。歓迎の言葉など口先だけだといわんばかりの冷ややかな目つきだ。周平は居心地悪く身動(みじろ)ぎした。やはり来なければよかった。周平の向かいにどっかりと腰を下ろした圭一に


「ご用がありましたらお呼びください」


 やわらかく微笑みかけ詩織は部屋つづきの台所へ下がった。


「なぜもっと早く来てくれなかったんだ」


 圭一が身を乗り出す。周平は戸惑った。なんでってそりゃ今までが今まででどちらかというと圭一がどうしてここまでフレンドリーになったのか、そっちのほうが謎だ。ちらりと台所へ目をやると、詩織が洗い物をしているのか、水音がした。


――そうか。


 長年の不仲のもととなったいきさつすべてとはいわずとも、詩織が大吾の記憶からわだかまりが解ける程度にこの弟にいろいろと教えてやったのだろう。滅魂丹で知恵者の遺伝子は駆逐されたがだからといってすべてを忘れ去ったわけではないということか。


「用がなければこんなところになど来ない」


 見た目は五十歳ほどの、酸いも甘いも噛み分けた中年男にしか見えない弟がしゅん、と萎れ肩を落とし、大きな背中を丸めた。


「こんなところで悪うございましたね」


 台所から再び姿を現した詩織がどすん、と圭一の隣に座った。


「で、ご用件は」


 つんけんとした物言いが大吾の愛人で目の前の女の祖母だった京子によく似ている。詩織は長年運命の女だと思っていた相手だ。事情を知らない弟の圭一が一目惚れしてかっさらっていったが、それも周平の中では折り合いがついている。しかし周平は圭一に相談したいのであって詩織には話を聞かせたいわけではない。


「いやその、ハイブリッドコードキャリアの、その体調のな、話だからあんまりその」

「身体に変調でも?」

「それがその、体調はすこぶるよくてだな」


 圭一が考えこむような仕草をする。


「体調がいいのはいいことだ。周平、あの日の」


 三人の間に沈黙が降りた。


「――白梅の最期の、あの後から順を追って話してくれないか」


 弟に促され、周平はぽつぽつと語り始めた。



 渇きの話、大山猫から人に戻れなくなった話、洞窟の話、(少々割愛したが)夢の話、と陋屋を脱出したのちのことを語り終えて周平は肩を落とした。詩織はうつむいている。圭一が口を開いた。


「――で、そのお嬢さんをちゃんとお宅まで送り届けたのか」


 低い声がやわらかい。緊張にこわばった肩をほぐしながら周平は答えた。


「いや、山の麓の交番近くまで。その、服やら何やらの用意がなくてその」

「裸だった、そうだろう。そういう事情であれば仕方ない」


 よく分かる、しみじみとした目で圭一は言った。さすがに話が早い。兄弟だからというだけでなく同じ獣化異能者で長命種だ。同じ悩みを持ったことがあるはずだ。圭一に話してよかった。理解者を得て周平の気分が幾分上向いた。


「運命の女を見つけた。――そうおっしゃりたいんですか、周平さん」


 詩織が顔を上げた。いわくいいがたい目つきをしている。周平は後ずさった。ソファがあるから物理的には無理があるが心の中では三十メートルほど後ずさった。


「まあその、そうだ、そうなんだ」

「で、そのお相手は五歳の幼児だと」

「そのいや、なんだ、あの、――はい、そうです」


 縮こまる周平を詩織は寒々とした目で見下した。


「五歳」

「いやまあ、そのなんだ、もうアンタに遠慮することもないだろう」


 寒々とした視線の温度が絶対零度まで一気に下がった。


「遠慮なんぞ元々必要ありません。話をすり替えようったってそうはいきませんよ」

「いや、そんなつもりは、その」

「このロリコンが」

「いや違う、運命のひとがたまたまとても若かっただけで」

「そういうのをロリコンっていうんですよ」

「ち、違うぞ、断じて違う。そうじゃない」

「一晩中全裸で幼女を抱きしめてぺろぺろしてたんですか、この変態が」

「や、やめてくれ。彼女にそんなことは」


 ――した。しちゃった。目もととかほっぺたとか口もととかだけどぺろぺろしちゃった。くすぐったそうに身をよじるのが愛らしくてぺろぺろしまくった。後悔はない。ないがしかし


――変態なのか、オレ。


 理解者の顔から一変、難しい表情で腕を組む弟の前で周平はうなだれた。



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