私は知っている
この掌編は、終章「白梅」、番外編「もにゃ橋さん(仮)」の「白梅様はご存じない。五木さんのことをかわいいおじさんぐらいにしか考えていらっしゃらない」あたりを第三者視点でkwskしてみました。お楽しみいただければ幸いです。
昼休みの女子トイレってのは魔窟だ。特に昼休み終了間際の魔窟度合いの高さったらない。化粧直しする女子社員であふれている。この時刻、トイレはさして混んでいなくて順番待ちせずに入れるんだけど、手が洗えなくて困る。
――どきやがれ。
私の念はトイレの手洗いスペース、鏡の前を占拠する先輩方には届かない。これまた午後のお茶を淹れる人々でごった返すであろう給湯室で手を洗うか。踵を返そうとしたそのとき、グロスでぬらぬらした唇を歪め、先輩社員がいった。
「聞いた? 会長の愛人だったんですって」
「ああ、やっぱり。すごいスピードで昇進したのはそれなんだ」
先日、わが社の元会長が亡くなった。勇退しておよそ二ヶ月。まだ社内に女傑で有名だった小柄で上品な老女の気配が梅の花の香りのように残っている、そんなタイミングの死だった。
先輩女子社員が噂しているのは元会長秘書だった橋口さんだ。彼はもともと総務のスペシャリストだけれど、経営企画部に転属することになっている。まだ三十代初め、役職つきだからスピード昇進といえなくもない。愛人じゃないの、という意地の悪い囁きは以前からたまに耳にした。女性ながら傑物との誉れ高い元会長の仕事ぶりと人柄に傾倒する橋口さんは毎日自ら車を出して送迎までしていたからだ。少々業務から逸脱していたのは確かだ。
「やだ、めったなこというもんじゃ……あ、ソースあるね?」
「秘書課の子。課長から聞いたって」
口さがなく言い合いながら先輩社員たちは手を休めない。ぬりぬりぐりぐり。唇をあんなに歪めていても動かしていてもグロスやらリップやら塗れるなんて。すごい。歪なほうれい線できちゃいそうだけど。
「ああ、それで受付のあいつ、振られたんだ」
「かわいそう」
うふふふふ。
化粧直ししながら笑うので妙にこもって聞こえる。
私は知っている。なぜ先輩たちがここまで橋口さんを嘲笑うのか。
橋口さんは激モテだった。元会長が頼りにしていただけのことはあり、仕事ができる。物腰やわらかで驕ることがない。飛び抜けて美形ではない。俺様でもない。しかし清潔感があって笑顔がさわやかで長身細身、スピード昇進が決まったばかりでしかも独身。マルカワカンパニーの超優良物件なのだ、橋口さんは。
それなのに社内だけでなく取引先の女性、あらゆる女性の誘惑をはねつけている。むっちり、ビッチ、童顔、バリキャリ、癒し系、巨乳、はたまた貧乳、あらゆる属性自慢が橋口さんに当たって砕けている。
受付嬢だけでない。ここでトイレの鏡前スペースを占拠している先輩方全員、轟沈しているのだ。橋口さんに。中には告白どころかモーションかけるまえに敗れている人もいる。
だから、元会長の愛人だと思いたいわけだ。そうでなきゃどうして私たちになびかないんだ、そう思っているわけだ。
「でもさあ、会長、八十歳手前よ? 男子的にどうなの、そんなん、アリなわけ?」
「熟女通り越して老女って対象としてどうよ」
「さあ? そこはやっぱり昇進かかってたからじゃん?」
分かってない。先輩方はぜっんぜん分かってない。
ついため息を漏らしてしまった。スペースを占拠していることにようやく気付いたか、「ごめんねえ」と先輩のひとりが洗面ボウルを譲ってくれた。さささ、と手を洗い、その場を後にする。
私は知っている。
営業部の端っこでばたばたアシスタントしている入社一年目、ぺーぺーの私になんぞ諸先輩方は意見を求めたりなさらないだろうがその件に関して見解を述べるならこうだ。
昼メロかよ。発想古過ぎ。かろうじて「年上が好みらしい」ぐらいはかすっているといえなくもないが全然なってない。間違ってる。元会長の愛人で昇進がかかっていたから女性社員になびかないんじゃない。多々良が浜のおしんと称えられた亡き会長の懐刀、橋口さんはデキる男だ。あれだけの男が女など眼中にあるわけがない。すばらしい。橋口さんが身を焦すのはBL――男同士の愛なのだ。
あれは元会長が勇退されてすぐのころ、年末。ちょっと寒さの緩んだ夜だった。
営業部に配属されて半年以上経って、そこそこ上司や先輩たちの役に立てると自負しはじめたころ、それはやってきた。繁忙期だ。日々、なんていう呑気なペースではない。時々刻々、余裕が失われていく。ボタンの掛け違いがエクストリームレベルに達すると阿鼻叫喚の残業地獄になり、ぺーぺーの私は優先度全項目ストップ高という指示にフリーズして状況をさらに悪化させた。半べそかきながらリカバリーしたときにはすでに日付が変わっていた。会社を出て駅へ向かう。電車は終わっているけれど、駅前に行けばタクシーぐらいつかまえられるだろう。
灯りの乏しい道路をとぼとぼと歩く。幹線道路なのに車の行き来が少ないからますます暗く感じられる。やがて街灯の数が多く幾分明るいところに辿り着いた。公園だ。
私は見た。
男が二人。離れたところだけれど街灯の下だからよく見える。一人は橋口さんだ。もうひとりは長身の橋口さんより更に大きい。
決して立ち聞きしようとか、出歯亀しようなどと思ったわけではない。私がとぼとぼ俯いて歩いていた、その進路上にいたわけ。
「困ります……」
何となく聞き覚えのある声が聞こえて顔を上げたらそこにいたわけ。むっちり、ビッチ、童顔、バリキャリ、癒し系、巨乳、はたまた貧乳、あらゆる属性自慢のおねえさま方が爪研ぎ牙研ぎ狙っている話題の人物がそこに。身長百八十センチ超え細身長身学歴将来性気立て顔立ちハイクオリティ全部入りのイケメンが頬染めつつ相手の男から顔を背けてたわけ。弊社の旬のイケメン、橋口さんが。
やだ萌える。なにこれ。
イケメン? 大好物ですよあたりまえじゃないですか。だがしかし二次元に限る。三次元のイケメンなんぞに興味はない。だってあいつら髭生やしたり汗とか何とか各種汁垂れ流したりするのよ? 断固拒否。二次元イケメンだったら髭も汁も許せるけど三次元はダメゼッタイ。二次元でもヘテロカプは受け付けないけれど、それでも三次元よりはマシ。キャラの視線の先を辿って萌えを見つけてみせる。たとえそこになくても見つけてみせる。大好きなキャラが女なんぞといちゃいちゃしてるのは気の迷い。いや、萌え燃料が不足して視界が歪んでるだけだから。頭が高いぞ女、どけええぇい。こちらのイケメンキャラ様はあちらの男前殿とおくっつきあそばす運命なんじゃどけええぇい。
ええ、わたくし、腐女子ですとも。それが何か?
「――話を聞いてほしい――」
「五木さん……でも――」
いい男といい男がきゃっきゃうふふ、そういうのが大好物ですよ何か問題でも? でもね、腐女子だからって男×男だったら何でもいいわけじゃあない。私はね、三次元は駄目なの、生モノ不可。かっわいい弟が生モノBLの被害に遭ったことがあるからね、そういうのは赦せないわけ。「生モノゆるすまじ」、我ら四姉妹鉄の掟なのに――何なのよこれ。
眉間にわずかに皺をよせて顔を背ける橋口さんの肌の白さよ。公園の街灯の青白い光が映えて幸薄い感じがむんむんしてる! 対する巨漢は橋口さんよりずいぶん年上、四十代後半ぐらいだろうか。サラリーマン風ではない。かと言って肉体労働者風でもない。がっちりしているわりに肩や背中が内向きでもっさりしていて、それなのに目つきが鋭い。職業不詳。美形じゃないけどいい感じ。イケメン橋口さんの線の細さと対照的な少しワイルドな雰囲気のおっさんだ。
色白リーマンとがっちりちょいワイルドおっさん、その二人が絡んでるわけ。興奮すんなってほうが無理。ごくり。姉よ妹よ同志たちよ。すまん。私、生モノ御法度、破っちゃいそう。だってだって、立ちすくむ私の視線の先、進行方向上で展開されてるよパラダイスが!! ガン見せずにいられようか。いや、いられない(反語)。
「なぜ……なぜ俺は駄目なんだ」
「五木さん、そうじゃありません――」
とかいって橋口さん、顔を背け頬染めてる。やだ、素敵。受けなのね。眼福。
「俺はもう――駄目だ――なんとかしないと」
「五木さん……!」
少し離れているから、密やかに交わされる言葉のすべてを聞き取れるわけではない。しかし二人の間で膨れ上がる緊張がこちらにも伝わってきた。
突如。ちょいワイルドおっさんが表情を厳しくして橋口さんの胸倉を掴み、公園のフェンスに乱暴に押しつけた。フェンスが軋む。
体勢が変わって私の位置から見えるのはちょいワイルドおっさんの背中と巨体から顔をのぞかせる橋口さんの表情だけだ。覆いかぶさるように迫るおっさんを見上げる橋口さんはなんていうかその――苦しげなのにおっさんを気遣うような目をしていて美しかった。
「五木さん、いけません。だって――」
「しかし橋本さん」
「橋口です」
切なげに眉をひそめる橋口さんの目が潤む。ちょいワイルドおっさんのごつい肩にかかる橋口さんの細く長い指が街灯の光を受けて青白い。
「じゃあ、せめてこれを――」
「いけません。しらうめさまが、お許しくださら――」
「お願いだ、橋場さん」
「橋口です」
でっかいちょいワイルドおっさんは橋口さんの胸もとから手を離し、両手できつく公園のフェンスを掴んだ。巨漢の両腕に囲われた橋口さんの少し乱れた胸もとに何かある。赤、ピンク、白、黄色。にぎやかな色彩。花束だ。
「でも、五木さん――受け取れません」
大事そうに花束を抱える橋口さんがおっさんを見上げ切なそうな顔をした。しばし無言で見つめ合うふたり。高まる緊迫感と濃厚な雰囲気で見守るこちらの胸がつまる。
極限まで高まった緊張が解けた。ちょいワイルドおっさんがフェンスから手を離し、ゆらりと後ずさった。
「また来る。――を頼む、橋立さん」
「橋口です」
でっかいちょいワイルドおっさんはしょんぼりと去った。道路の向こうの闇へその姿が溶けるように消えてゆく。
「駄目っていったのに……」
でっかいおっさんが去った後も公園のフェンスにもたれたままだった橋口さんが私に気づいた。
「あ、――渡部さんですよね。営業の」
「はい」
私の名前は「わたべ」だけど「わたなべ」と読まれることが多い。人によっては何回訂正しても覚えてもらえないこともある。学生時代の友人にも「なべちゃん」「なべ子」なんてニックネームをつけられることがあるくらい、間違われる。でも橋口さんは、同じ本社勤務、同じフロアといっても管理部門から遠く離れた営業部の端っこでわたわたするだけの入社一年目ぺーぺーの名前を覚えてくれていた。そういえば橋口さんは面接官の一人だった。
――落ち着いてください。だいじょうぶ。
――緊張なさるほど大したことないんですから。
――あなたのお話を聞かせてください。
そうだった。このやわらかい笑みに私は救われた。入社後も一度だけ、言葉を交わしたことがあった。管理部門のコピー機を借りに行ったときだ。
――今日も慌てていますね。面接のときみたいに。
――落ち着いてください。だいじょうぶ、壊れていませんよ。
たまたま居合わせただけなのにフリーズしたコピー機の蓋を開けてちょいちょいといじって紙詰まりを取り除いて、橋口さんはにっこり笑った。そうだった。あのときもまたこの人の笑顔に救われたんだった。
そして今夜、公園のフェンスにもたれて疲れを隠せない顔をした橋口さんは少し乱れた胸もとにかわいらしい花束を抱いている。
「だいじょうぶですか、橋口さん」
「ええ、ありがとう」
すぐ近くまで歩み寄った私を見下ろし、橋口さんはふんわりと微笑んだ。しかし、手もとに目をやって困り顔に戻った。
「ああ、――これ、よかったらどうぞ。差し上げます」
そして私に花束を押しつけた。
「でもあの、これ――」
「いいんです。僕が持っていても仕方ありませんし。それよりも渡部さん――」
ふおおおおおお、近い近い近い。生イケメン近過ぎるううう。
橋口さんがこちらを覗き込んで何かいっていたけど、残業疲れで朦朧としてるし、何より眼福シーン鑑賞の余韻にひたってるからよく分かんない。橋口さんが去った後、公園のフェンスにもたれて一人、私は夜空を見上げた。
星が出ているのか月が出ているのか、はたまた曇っているのか、街灯の青白い光を直に浴びる私には見えないし、どうでもいい。ひんやりとした夜気が気持ちいい。
私ね、分かった。分かっちゃいましたよ。
薄い本という潤滑剤を手にする暇もない日々。連日の残業でエネルギーが切れていたはずの我が腐ジェネレータが起動した。ばっちり分かっちゃったもんね。
惹かれあう橋口さんとおっさん。橋口さんは受けね。間違いない。攻めのおっさんとの間に障害があるんだ、きっと。だから花束を受け取れない。
二人の間の障害ってなんだろう。さっき話に出てきた「しらうめさま」と呼ばれる誰かなのかな。実家が東京だからこのあたりのことはよく知らない。だけど、近在の旧家のあるじが「しらうめさま」と呼ばれているらしい、それは耳にしたことがある。障害はきっとそれだ、「しらうめさま」。旧いしきたりやら世間体を気にして愛を貫けないんだ、あのふたりは。
いい香り。
赤、ピンク、白、黄色。にぎやかな色彩。薔薇の花束だ。
花束、受け取ってもらえないんだね、おっさん。でもね、社会人一年目の小娘だけどさ、それでも分かっちゃったもんね。そばで見たから。おっさんの影が溶けるように消えた方向に目をやり、私は物思いに耽った。
橋口さんは物腰がやわらかくて誰にでも優しい。おっさんもさ、橋口さんのそういうところ、最初はいいなって思ったんだよね、きっと。分かる。すごく分かるよ。優しい人には心惹かれるもの。
でもね、恋はもう次のステージに進んでると思うの。ああ、優しいな、笑顔が素敵だな、だけじゃ恋の炎は保てないよ。あいや、お前恋人なんぞいたためしがないだろうとかそういうどうでもいいこというなよ、おっさん。もうここにいないけど。おっさん、私のこと知らないんだし。知らないどころか私があの場に居合わせたことも気づいてなかったっぽいし。なんかでかいおっさんに腹立ってきた。生モノとはいえBLだから赦してやらなくもないが本来爆発すべき事案だよリア充め!
とにかく、純粋な傍観者たる私からいわせてもらえばアレだ。恋のステージはお互いを深く知る、ここに到達していると見た。最初は特別におっさんだけに与えられていたはずの微笑み、仕草。時を経て繰り返しにときめきがすり減ってしまう、そんなこともあろう。じゃあ何かい、おっさんのことを橋口さんが知ればよいとな? 控えよ、おっさん! 控えおろう! ちょっとワイルドだからって「俺、攻めね」みたいに当たり前にポジション占有してんじゃないよ、謙虚たれ、おっさん!
ふたりで障害を取り除き恋の炎をジャンボリーなキャンプファイアの如く盛り上げるために何をすべきか。末永い幸せを得る次のステップを踏むために何をすべきか。中学入学時から十年間、腐女子一徹のわたくしが教えてしんぜよう。
リバですよ、リバ。
おっさんよ。あんたに必要なのはロールプレイに堕したマンネリズムの安寧じゃない。攻めポジションを相手に譲り、受けにまわる、むしろ積極的に受けを担う柔軟性。必要なのはリバを恐れない心、勇気。これだ。
ビバ生モノ。なんで三次元毛嫌いしてたんだ、私。
中学から腐女子、理想の男子は二次元にしかあり得ないと思ってたけど生モノも悪くない。私はときめいた。
「渡部さん。――渡部さん?」
もうね、眠いの。ここんとこずっと残業続きだったから、疲れたの。でも今日は素敵な場面に遭遇したの。だからすっごく幸せ。
「ちょっと、ちょ……渡部さん、立ったまま寝ないで」
「……」
「車持って来ましたよ、お送りしますから」
「――橋口さん」
「なんでしょう」
まぶたが重い。薄く目を開けると、橋口さんがそこにいた。青白い街灯に照らされているのはさっきと同じなのに、なんか違う。笑顔が素敵でイケメンだけどどこか違う。さっきの橋口さんは美しかった。もったいない。
「あのおっさ……いや、先ほどの方と、おしあわせに」
「はい?」
「おっさんと……」
「おっさんって――五木さんのことですか? 何を馬鹿なことを――え? ふじょし……ふ、腐女子? まさか渡部さん僕のこと……勘弁してくれもう」
あ、それそれ。その幸薄い感じ、すごくいい。
「お願い、お願いです、起きて。住所だけでも教えて――ああっ」
なんだか、弊社ダントツのイケメン、橋口さんの声が聞こえたような気がする。夢にまで燃料投下ってやだ萌える。
父親とも弟とも違う、しっかりとした腕、胸板のあたたかさにうっとりしつつ、私は意識を手放した。




