特効薬と乙女
終章「白梅」のその後のお話です。テイストはいちゃラブですが尾籠なネタを含みます。おなか具合に関する描写はほのめかし程度であってもイヤ、などなど耐性のない方にはおすすめできません。
この掌編は『白梅荘顛末記』を読んでくださった方向けの作品です。作品独自の設定や用語についての説明がない上に本編の内容に触れております。閲覧にあたりご諒承いただければ幸いです。
大きい人は私の目もとに何度も口づけた。熱い息と心もとないくらいやわらかい唇。ケイさんは深くため息をついた。
「――やっぱり、生はいい」
聞き捨てならない。なんだ、その隠微な響きは。
「生って何ですか。いいって何ですか」
「そこ、引っかかっちゃうの? ――いやその、久しぶりに睨まれたな」
放せ、おっさん。至近距離ででれでれするな。要点を押さえてきびきび話しやがれ。何だ、がっちり掴まれているあたりに違和感が。ちらり、と背中に目をやって視線を戻し、そして二度見した。――爪がにゅにゅ、と伸びかけている。
「ああ、だめだ。――俺、嬉しくて獣化しちゃいそう」
「ちょっとケイさん落ち着いて。夜中とはいえここお外、今ここで針毛で服びりびり破いて真っ裸は困る、困ります――やめんか、ステイ!」
なんとか落ち着いてもらい、話を聞いた。
この二ヶ月間、どうしても獣化の、そして狂暴化を抑えられそうにないタイミングがあったらしい。事情はよく分からないが山で獣化するのが難しかったのだろう。当然のことながらより簡単な方法を採る――女性の体液を無差別に摂取するわけにもいかず、大きい人は困り果てたのだそうだ。
「そういえば、もにゃ橋さん(仮)がすごく困った顔をして『五木さんとお会いにならないんですか』とかなんとか」
「モニャハシ?」
「真知子さんの元部下でなんとか橋さんってお名前の――」
「ああ、橋なんとかさん」
「いや、なんとか橋さんでしょう。だからもにゃ橋さん(仮)」
「そうだったか? 橋もにゃさん(仮)でなく? ――もにゃ橋でいいや、そのもにゃ橋さん(仮)、きみにちゃんと言伝してくれたのか」
「ええ、何度かそのようなお話を聞きました」
えらく湿っぽい調子で「お願いです、お願いですから」とかなんとかいっていたような気がする。
「凶暴化の件、何とかなったんですか?」
「なんとか。あの豆絞りの手拭いを……」
「豆絞りってまさか、あの夏の? あのきったない切れっ端?」
「きったないって、――俺にとっては貴重な、そのあの」
「で、食べたんですか」
「食べた」
私たちの間にしばらく沈黙が降りた。
「ばっちいから捨ててください、と申し上げました」
「うん」
「衛生上大いに問題がある、と申し上げました」
「うん」
「私との関係に問題が生じる場合は他のパートナーを探してください、と申し上げました」
「そういわれた気もする、覚えていないが。――あの豆絞りは効果があった」
「おなか壊したでしょう」
「うん」
それだ。有効だったのは豆絞りに残った私の汗だの涙だのじゃない。おなか壊して凶暴化する元気がなくなっただけだ。
呆れた。心底呆れた。なんでこの人はこんなに変態なんだ。度し難い。まったくもって度し難い。何が何でもこの邂逅を回避すべきだった。まんまと罠にはまった自分に腹が立つ。
「ケイさん、次のパートナーが見つかるまでは便秘薬でしのげばよろしい。よい方法が見つかってよかったですね。――じゃ」
「ちょっと、ちょっと待って詩織、詩織さん?」
腕の中から脱けようとばたばたもがいたら、ぎゅう、ときつく抱きしめられた。
「詩織、すまない。そんなに怒らないで。――ちょっと嬉しいけど」
「――やだ、ほんとにやだ、変態きら」
嫌い、といいかけたとき、ケイさんが私に頬ずりして
「嫌いっていわないで」
耳もとで囁いた。
うぐぐぐ、とうの昔にご存じだと思うんですがね、そのあたりは弱点なんですよ。卑怯だぞ変態低音エロボイス。
「困った人ですね」
「すまない」
「――ところでその、困っちゃうのでね」
両腕をつっかえ棒のようにしてぐぐーっ、と巨体を押しやり離れようとするが、今夜の大きい人は強引だ。ぎゅぎゅ、とふたたび力強く抱き寄せられた。
「放してください」
「やだ」
「――じゃあ、ちょっとだけ身体を離してください」
「――やだ」
どうして、と訊かないわけだ。分かってやってるってことだな。
「ほんとに困るんで、ちょっとだけでいいので」
「離れたくない。その、あの、済まないと思ってる。でも俺も男なんで」
「ほんとにやだ。――それ、『ステイ!』でどうにかならないんですか」
「えっと……分かんない、かな」
「え?」
なんだろう、引っかかる。「ステイ!」については半分冗談だったんだけど。分かんないって、なんだか含みのある言い回しだな。んん? まさか。いやいや、まさか。それはない。さすがにそれはない。でも。
――彼は乙女ですよ。
――乙女です。お、と、め、ですよ、高野さん。
みちるさんがいってたのって、そういうことだったのか――!
新しく実験記録装置と契約を結んで拠点に所属する実験体として既往症だけでなく過去の交配実績とかそういうもろもろがデータとして必要とかなんとかで調査されたんだろうけど、まさか、いやいやだって百歳、ということは一世紀ですよ、でも、でもやっぱりそうなのか。乙女ってそういう意味でもあったのか。
重い。いろんな意味で重い。
「ケイさん、あんまり体重かけられるとちょっと――つらいです」
「すまない」
少し軽くなったけれど、ケイさんは私の肩、というか首のあたりに顔を伏せたままだ。ものすごく肌が熱い。赤面しているらしい。首筋にすりすりされているのはアレだが、腹に押しつけられていたぐりぐりが少し遠ざかったので、私もいくぶん落ち着いた。ふうう。
「俺、恥ずかしい」
「そんなことないですよ。私は嬉しいですよ」
ケイさんが顔を上げた。少し涙目になっている。そして口をへの字にした。
「詩織、困ってる。困った顔してる」
「あー、困っていません。ケイさんは私のことをまだよくご存じでないようですね。これは困った顔ではありません。嬉しい顔です。喜んでいるのです」
ほんとは困ってる。何といえばいいのか分からないから。
なんでそんなこと、気にするのかなあ。これは私の正直な感想を表せる言葉だけど、投げやりになっていると誤解されるのはいやだ。だからそんなもの言いはできないし、したくない。
「ケイさん、私があなたの心にダイブしたとき、喜んでくれたでしょう? 初めてか、って」
まだ少し赤い頬を撫でる。無精髭が掌をちくちくと刺す。そのまま掌をごわごわと硬いケイさんの髪の毛、後頭部に滑らせ、ぐい、と引き寄せた。への字になった唇の端にちゅ、と口づける。
「あのときのケイさんと似たような気持ち――かも。今はアンカーがなくなっちゃいましたし、ダイブもできないから確かめられませんが」
本当は異能があろうがアンカーがあろうが、感覚を共有しようがそんなことは確かめようがない。お互いの隙間を埋めて隔たりを境界ぎりぎりまで取り払ってみたから実感できる。同化は不可能で、理解への道のりは厳しく険しい。
しばらくそのまま、ケイさんの背中を撫でつづけた。
何とかなると思いたいが、あまりにこの方面に繊細で心配になる。前途多難だ。私はため息をこらえた。まあ、なんだ。結局アレだ。心の底から知りたい、理解したい、愛したいと思う人がたまたま百歳でしかも乙女だった、と。そういうことだ。問題ない。
問題があるとしたらどっちかというと、私だ。
興奮すると山嵐になっちゃうでっかくてもっさりしたおっさんがかわいくてしかたない。他のパートナーを探せとかなんとか突き放しておいて、「離れたくない」なんていわれたら天にも昇る気持ちになっちゃったりして、この人なしじゃ生きていけないのって私のほうなんじゃないか。だから困ってるのも、嬉しいのもどちらも嘘じゃない。そんなごちゃごちゃどきどきした気持ちがだだ漏れになっているに違いない顔を隠したくて、私はケイさんをぎゅ、と抱きしめた。




