もにゃ橋さん(仮)
『白梅荘顛末記』番外掌編です。終章「白梅」あたりのお話です。
この掌編は『白梅荘顛末記』を読んでくださった方向けの作品です。作品独自の設定や用語についての説明がない上に冒頭から本編終盤の内容に触れております。閲覧にあたりご諒承いただければ幸いです。
叱られている。がっちがちに叱られている。
「ど、う、し、て、黙って出て行っちゃうんですかッ」
いや、だってさあ。ちゃんと退院の手続きもしたし、お金も払ったし。大人なんだからさあ、好きにしてもいいじゃない。確かに病院の人が
「あの……ちゃんとお話しになりました? 勝手に退院ってことは、ないですよね?」
とか何とかいっていたのだけれどそこは重々しく
「まさか」
と口を濁しておいた。悪いことしたな。八つ当たりされただろうか、病院の人。
「まあまあ、落ち着いて。――痴話喧嘩みたいに見えちゃいますよ?」
「なっ――ちっ、痴話っ――!」
ここは東京、住宅街の一角にある喫茶店だ。古びた内装。色褪せたポスター。コーヒーの香りがあたたかい。近所の常連客が多いのだろう。年齢層高めの――要するにじーさんたちだ。カウンターのスツールに腰かけている三人、カウンターの中にも蝶ネクタイをしたじーさんが一人、合計四人の熱い視線を私たちは浴びている。テーブル席の向かいで怒りと羞恥で真っ赤になって縮こまっているのは
「まあ、落ち着いて、大橋さん」
「橋口です」
毎朝つやつやの高級車で真知子さんを迎えに来ていた部下だという折り目正しい男性だ。
私は死ななかった。
意識を取り戻すとそこは病院で、点滴やら導尿管やら、身体のいろんなところからチューブが生えていた。
「白梅様、ご無事で何よりでした」
付き添ってくれたのは真知子さんの部下だった。なぜか印象が薄くて名前を覚えられない。異能を失って気が抜けたんだろうか。仕方なく、この男性をもにゃ橋さん(仮)と心の中で呼ぶことにした。
もにゃ橋さん(仮)によると、意識を取り戻した真知子さんにとにかく事態の収拾を図れと指示されすぐに白梅荘に戻ったそうな。そこに周平から連絡が入って事件の起きている場所が知れた。そこへ向かうと、炎に包まれた陋屋の近く、火の粉の飛ぶ枯れ野に半ば意識を失った状態で私が倒れていたという。
「白梅様は、とにかく自分から離れろ、とおっしゃいました」
特定遺伝子を組み換える危険な物質が体内にあって代謝にどれだけかかるか分からない、影響を受けると危険だからその遺伝子保有の可能性のあるものを近づけてはいけない――。
何度も譫言のように繰り返したのだという。
顔を見ればそこそこに整っているし、たいそう仕事ができるという評判に違わず賢そうで人あたりもよい。それなのにもにゃ橋さん(仮)は微妙に印象に残らない。そこはかとなく影薄青年を思わせるところがある。親戚だろうか。
今思えば影薄青年のみょうちきりんな影の薄さ、あれも異能だったのかもしれない。隠蔽能力が高い、とか。もにゃ橋さん(仮)も多々良が浜に代々住んでいたのなら、ハイブリッドコードがちょびっと濃かったりするかもしれない。
「小橋さんは大丈夫でしたか」
「だいじょうぶ、というのは特定遺伝子関連の――ということですか? 特に何もありませんでしたが、事件の最中ですからね、普段とまるで同じ体調というわけにはいかなかったと思います。――あの白梅様、わたしの名前は小橋でなく橋口です」
本人が平気そうにしているのだから問題ないのだろう。
事件の現場に駆けつけたもにゃ橋さん(仮)は近づくな、といわれたわけだが目の前に大けがをした女が倒れていればそうもいかない。何とかしなければ、そう考えたらしい。消防車やら警察やら病院やら一切合切の手配を代行してくれた。親切だ。
火傷に左腕と後頭部の怪我、昏倒で私は数日目覚めず、面会謝絶となった。なんだかんだで長期入院になってしまった。年を越し、もう二月も終わる。まだ冬なんだが、通りのそこかしこに沈丁花の香りがただよう。春めいてきた。
病院を抜け出した、もとい、退院したのは、真知子さんの手配であてがわれたゴージャスな個室の出費がかさむことがいちばんの原因だ。もにゃ橋さん(仮)は金の心配はいらないとか何とかいっていたが、他人様に平気でたかれるわけがなかろう。
「探しましたよ、ほんとに大変だったんですから」
もにゃ橋さん(仮)が主張する。それはどうかな。だってそこはあれ、アウトソーシングしたんでしょう、探偵さんとか。それでもまあ、反省しないこともない。私が悪かった。
「今後気をつけます、高橋さん」
「橋口です」
もにゃ橋さん(仮)にはケイさんに託した書類――白梅荘の譲渡手続きの代行もしてもらった。無事にマルカワカンパニーの社有地になるという。
真知子さんの余命を知ったとき、娘夫婦であるマルカワカンパニー新オーナー夫妻と譲渡について話し合いが済んでいる。勢田さん夫妻は
「昔支援された以上のインセンティブは不要」
と考え難色を示した。ひとまず「今時こんな不動産もらってもお困りでしょうけどそこを何とか」とプロジェクトの草案といっしょに渡して納得してもらった。
提案したのは白梅荘を結婚式場にするプランだ。古い建物だけれど、それだけに贅沢な造りだ。今同じものをつくろうとすると莫大な費用がかかる。それでも一からつくるより安いとはいえ、手を入れる必要もあろうから、なんだかんだで初期投資としてはそこそこに額が大きくなってしまうに違いない。
「白梅荘を結婚式場に、というお考えはおもしろいとわたしも思いました」
もにゃ橋さん(仮)はビジネスマンのお顔になる。
「そうでしょう?」
忌みごとを避けた古い習わしに縛られた乙女の館だが、このあたりもめでたい感じのエピソードを盛りこめば宣伝になりそうではないか。近くにはマルカワカンパニーの経営するホテルもある。ブライダルビジネスのノウハウを元より持っているし、宿泊プランとのセットも可能だ。
「あのプラン通りに使え、と申し上げているわけではありません。研修所にしていただいてもかまいませんし、更地にされてもかまいません。マンションに建て替えてもよろしいんではないでしょうか」
「白梅様――」
もにゃ橋さん(仮)の目が悲しく曇る。
「会長がいよいよ――」
「そう、ですか」
ふわふわとウェーブのかかった銀髪が皺の寄った額や頬のまわりで躍動し、瞳が輝く。レースやらフリルやらがわっさわっさ音を立てて揺れるワンピースがお気に入りで、恋愛小説やメロドラマ、ロマンスが、そしてお酒が大好き。少女がそのまま大人になったようでいて、どんな危機にも気丈に対応する企業のトップを長らく務めた辣腕の持ち主。そして異能を持たなかったけれど、ハイブリッドコードが発現しているとしか思えないほど私を魅了した乙女。
真知子さん、会いたい。
昏睡状態が続いていると聞いている。
この冬、マルカワカンパニーから勇退するのと同時に、白梅の乙女からも引退することになった真知子さんのまわりを見舞いだなんだとうろちょろすれば私が白梅荘の当主だったことはすぐに知れる。もう一歩踏み込めば今の私はもう白梅荘と関わりがないことも知れるわけだが、忌みごとに関する制約がやたら厳しかっただけに何かと後ろ指をさされる。
「もとの乙女だからといって当主がほいほい見舞いに来るなんて……」
「昔ならこんなことは……」
病院という場所は年寄りが多い。屈託を抱える年寄りが多い。
私は何をいわれてもかまわないし、聞かれれば現状を説明する。しかし残り少ないともに過ごす貴重な時間を惜しんでいる真知子さんのご家族に余計な負担をかけたくない。
「お見舞いに行けなくて――すみません」
そして最後のお別れにもいけない。たぶん。
――次の梅の花は見るつもりでおりますのよ。
いっしょに見たかった、私も。
もにゃ橋さん(仮)は疲れのにじむ目もとを緩めた。
「会長は別れはもう済ませたと、離れて暮らしていても私たちは家族だからと、おっしゃっていました」
真知子さんは離れていてもこうして私の心をあたためてくれる。
「ところで――」
もにゃ橋さん(仮)がいいにくそうに切り出した。
「五木さんとはお会いにならないんですか」
「会いませんよ。――意外にしつこい方ですね、石橋さん」
「橋口です」
もにゃ橋さん(仮)は泣き出しそうな情けない顔をした。
「白梅様、――そこを何とか」
「だからもうその名前では呼ばないでいただきたいと」
「今はその話でなくいつきさ」
「会いません。何度も申し上げたはずですが」
くうう。
もにゃ橋さん(仮)が奇妙な唸り声とともに顔を歪めた。
まだ若いとはいえそこそこにいい年をした男性が泣き出しそうになるのを久々に見た気がする。いや、そうでもないな。ケイさんはけっこう涙もろかった。
あの抜き針の儀式以来、顔を合わせていない大きい人をつい思い出してしまった。もにゃ橋さん(仮)、泣きたいのはこっちだよ。
「白梅様はご存じない。五木さんのことをかわいいおじさんぐらいにしか考えていらっしゃらない」
もにゃ橋さん(仮)がぶつぶつと独り言を漏らしはじめた。
「あのおっさんがどんなに怖いか、白梅様はご存じない――」
真知子さんは仕事ができると評価していたし、実際そのとおりなんだろうけど、ちょっと変わったところのある人だ、もにゃ橋さん(仮)って。
「自分の世界に閉じこもらないでください、浮橋さん」
「橋口です」
「ご用がそれだけでしたら、私はこれで――」
「白梅様――」
立ち上がりかけた私は鞄の中から手帳をとりだし、数字をいくつか書き連ね、切り取ってテーブルの上に置いた。
「現在の連絡先です。奥橋さん、私などに時間をかけず、真知子さんのそばに」
「白梅様」
「くれぐれもその連絡先を他の人に渡さないように。お気をつけくださいね、八つ橋さん。五木さんが現れたら私、消えちゃいますから」
「白梅様、――橋口です」
テーブルの上に置いたメモの代わりに伝票をつまみ上げ、私は席を立った。
追いかけようとしたのだろう、腰を上げたもにゃ橋さん(仮)をカウンターにいた三人のじーさんが取り囲んだ。
「にーちゃん、気ぃ落とすな」
「世の中の半分は女だぞ、にーちゃん」
「フラれたときにゃ、これに限る」
もにゃ橋さん(仮)の氷が溶けきって分離したアイスコーヒーに、じーさんの一人がだばぁ、とガムシロップを注ぐ。他のじーさんたちもテーブルの隅に置かれた籠にたんまり盛ってあるガムシロップをつまみ上げ、次々に蓋を開けてだばぁ、だばぁ、とやらかす。
「――あっ、ちょっと、何するんですか」
「フラれたときにゃ甘いもんに限る」
「聞いたことないですよ、そんな話。それに僕、フラれたわけじゃありません」
「往生際が悪いぞ、若人よ。あれのどこに今後の望みがあるというのじゃ」
「そもそも僕、仕事で――いや、仕事とはちょっと違う、でも――あっ、ガムシロップはもう、ああっ」
視界の隅にお年寄りと和やかに戯れるもにゃ橋さん(仮)のようすをおさめつつ、会計を済ませた。蝶ネクタイのダンディなじーさんが微笑む。
「楽しそうですな」
「ほんとに。――ごちそうさまでした」
からんころん、からん――。
ドアチャイムが背後で長閑に響く。乾燥した空気が冷たく頬を刺す。手にしたストールを首に巻きつけ、私は歩き出した。
沈丁花が香る。春が近い。




