第三十四話 虎落笛(十五)
私を壁に押しつけたまま、周平が唸った。
「――く、うう」
ちらりと目が合う。縦長スリットの瞳孔がきりきりと細く引き絞られている。左腕をきつく掴んだまま、周平が囁いた。
「詩織、――滅魂丹を、呑まされたのか」
「はい」
「朽ち縄が危険を訴えている。――これはただの幻覚剤じゃないんだな?」
「はい」
離れたところで川向こうの盟主が触手の拘束に抵抗し、もがいている。それをちらりと見やり、周平は再び私の耳もとに唇を寄せた。
「詩織、大きくなったな。オレは、お前が大人になるのを待っていた。――覚えているか」
覚えている。いや違う、思い出した。
三十年前、ここ、同じ陋屋で私の触手で切り裂かれ血まみれになったこの人と約束を交わした。
――詩織、オレの女王になってくれ。
――じょおうさま、はいや。おひめさまだったら、いい。
――そうか。じゃあ、詩織はオレの姫だな。
――うん。
――早く大きくなれ。大人になったら、迎えに行く。
迎えになんて、来てくれなかったくせに。この人は私が祖父が課した義務を果たすのを待っていた。私との約束より祖父を優先した。縦長の瞳孔に切なげな光が揺れる。
分かっている。周平にはどうしようもなかったのだ。いつもいつも意地の悪いことばかりしていたくせに、私が白梅の主として務められるよう導いてくれていた。義務を果たさなければ記憶の封印が解けないようになっていたのだろう。だから私は今このときまで周平と交わした約束を思い出しもしなかった。
それだけじゃない。私はもう約束を果たすことなどできない。つながりを断ってしまったけれど。大きい人にとって私が女王でなくなっても、私は他の人の唯一になれない。
「ごめん、――おじちゃん、ごめん」
「いい。――いいんだ、詩織。泣くな」
周平が唇を寄せてきたが、私は顔を背けた。ふ、と苦笑する気配がして、唇が目もとに触れる。冷たい唇だ。
「ソーマだ」
「滅魂丹はハイブリッドコードを解除する薬物です。その涙にも含まれているはず。霊薬にはなり得ません。毒です。口にしては駄目」
「かまわない」
ほう、とため息をつくと周平は小声で囁いた。
「ネズミは――弟はいいヤツだぞ」
「知っています」
「オレと弟は裏と表、陰と陽、生まれながらに背中合わせだ。オレにない善なるもののすべてをアイツは持っている」
「それは違います」
周平が目を瞠った。
「周平さんは周平さん、ケイさんはケイさん。裏表じゃありません。別の人間です。だからあなたはケイさんの悪の部分を寄せ集めた何かではない」
おば様が母親の明子さんの代わりでなかったように、私が再生産された祖父でなかったように、あなたたち兄弟も。
「アンタがそういうのなら、――きっとそうなんだろう」
ちかちかと肌が内側から光を放つ。そのまだら模様の明滅のテンポが上がっているのに、光が明らかに減ってきている。この人の体内のハイブリッドコードも組み換えられ、解除されている。治癒支援している朽ち縄もまた駆逐されつつある。
周平が微笑んだ。三十年前と同じ笑みだった。
「詩織、生きろ。生きて弟と――圭一と幸せになれ」
浅黒い肌にくっきりと刻まれた笑い皺。厚い唇に太く猛々しい鼻すじ。白髪交じりの硬そうな髪がかかる垂れ気味の眉。切れ長の目に宿る光が揺れる。愛おしい日向のにおい。私の光。私の熱。私の半身。――ケイさん。
もう、帰れない。白梅が治してくれるけれど、追いつかない。じわじわと広がる痣がつながり、触手のうちいくつかはもう千切れてしまっている。大きい人が美しいといってくれたこの肉の花も萎れ、爛れてしまっている。異能も、ハイブリッドチャイルドの器官も、おそらく命も失って、せめて心だけでも大きい人のもとに帰りたいけれど、でももう無理だと分かっている。
周平は私の腰にしがみついている白梅を見下ろした。
「これが大巫女――いや、白梅か。お互い、潮時のようだな」
周平は表情を改め、囁いた。
「二人ともよく聞け。――これから詩織の左腕に埋まっているあれを抜く。抜いたら、堰き止められていたエネルギーのルートが開く。白梅、そこを重点的に治して生命力の流失を抑えろ。川向こうのガキは間違いなく詩織の腕から抜いたブツに気を取られる。詩織、その隙に白梅と一緒にここから離れろ。いいな」
「でも、もう私は――」
体内を暴れ回る痛みと熱で朦朧としてきた。白梅が懸命に修復してくれるけれど触手を維持するのが難しい。
「ハイブリッドコードキャリアの生命力の仕組みは未解明の部分が多い。それでもエネルギーの通り道、回路のようなものを追加すれば生命力を底上げできることが分かっているんだ。オレの身体にはその仕組みを利用した秘儀がほどこされている。詩織、お前の場合は逆だ。生命力の流失を防ぐためにその回路を一つ堰き止めてある。ハイブリッドコート組み換えが終わる前に回路を復旧すれば身体のダメージが軽くなるかもしれない」
「でも……」
「しっかりしろ、白梅の。アンタはまだ乙女の主だ」
縦長の瞳孔に突き放すような酷薄な色が戻ってきた。
ぐ、ぐぐぐぐ。
周平の片腕が太く厚く盛り上がり黒いシャツが裂ける。あっという間に腕が灰色の獣毛に覆われ、手に鋭い爪が生えた。そして周平はその爪を私の左の掌に突き立てた。
「うわあああああ、ああああああっ!」
ぐりぐりと山猫の爪が私の掌を抉る。
痛い。熱い。痛い。ぶちり、とちぎれる音。探っていた鋭い爪が何かを掴み、引きずり出す。きらきらと透明に輝く大きな魚の骨のような、弧状に湾曲するそれが散る朱とともにぬったりと現れる。祖母の契約錠だ。
「おやーたしゃま! ――あ、う、うう」
周平が契約錠を引きずり出すのと同時に、触手を維持できなくなった。青い粒子が空中に飛び散り、地面に落ちて消える。それでも白梅は目に涙を浮かべながら私の腰にしがみつき、私の傷を癒す。小さな身体から盛んに漏れ出す青い粒子が私の左掌に集まり、取りつく。右腕だけで白梅を抱きしめ、私たちから離れて土間の中央へ向かう周平を見た。
「ああ、やっとあの化け物の触手が消えた。忌々しい女どもめ」
こちらを睨みつける川向こうの盟主が周平が握るものに気づいた。
「む、村尾、それが、それが契約錠なのか――!」
「ああ、そうだ。三十年前に詩織の腕に刺しておいた特別な一本でな。普通のものとは違うからオレでも抜けたというわけだ。――おっと。これをくれてやるわけにはいかんな」
「ど、どうしてだ……? それがこの世で最後の契約錠、滅魂丹の材料になるただひとつの契約錠だぞ? 村尾、よこせ、それをわたしによこせ」
「もう滅魂丹を作ったところでそれを使って従えるハイブリッドコードキャリアもいなくなるというのに、強欲なことだ」
川向こうの盟主より背の高い周平が、子どもに意地悪をするように契約錠を握った手を高く掲げる。はははは、と笑う周平がくるりくるりと身体の向きを変えるたびに、ひょこひょこと飛び跳ねて初老の男が
「よこせ、それはわたしの契約錠だ、よこせ」
と追いすがる。周平がちらりとこちらを見遣り、
――行け。
無言で示した。頷き返し、右腕一本で白梅を抱いて開いたままになっている戸口から外へ出た。枯野に分け入ってしばらく行ったところで身体の限界が来た。




