第三十二話 虎落笛(十三)
川向こうの盟主は滅魂丹が本来何なのかを知らない。単なる対ハイブリッドコードキャリア幻覚剤で、その影響下にあれば前後不覚になって自分のいうことを聞くようになる、そう考えていた。
「なぜ、なぜ……あなたには滅魂丹が効かないんだ、白梅のご当主」
「効いている。充分に」
「おやーたしゃま」
腕の中で震える白梅が私を振り仰ぎ、頬を撫でる。かさかさと乾いていて熱い手だ。
「白梅――」
この短時間にまた一層老化が進んだ。嵐太郎のときよりずっと、ずっと速い。幼子の姿のまま、花が萎れるように潤いを失い、乾涸び小さくなってしまっている。
そして白梅の身体から青く光る粒子がまた漏れて漂っている。その粒子は空気中でいったん集まり、塊になる。しかし白梅の身体に戻ろうとしてかなわず、途中で力尽き地面にゆらゆらと落ちて消えてしまう。実験記録装置白梅の本体はきっとこれだ。
「もう、小梅はいないのですね」
涙があふれるのを抑えられない。もしかしたらあの台風の朝、お久さんが亡くなったあの日に小梅もまた亡くなってしまったのかもしれない。
「はい。この身体にはもう、小梅はいません。そしてもう再生も――」
「白梅。この青い粒子のようなものの流失を止めることはできないのですか」
「――できません、おやーたしゃま。白梅は、もう――」
百七十五年前、嵐太郎の一度目の死の際に白梅は自分の一部を分け与えた。そして嵐太郎、祖父の大吾、おば様、そして私――、代々の当主がくだした乙女を減らす決断を優先し、白梅自身のエネルギー源を十分に確保しなかった。もうずいぶん前から、白梅はちゃんと機能できずにいる、きっと。
「白梅、これを持って来ました」
懐から大広間の床下で見つけた小さな壜を取り出すと、白梅が目を丸くした。小さな掌の上で壜の蓋を外し傾けるところり、と青藍の輝く石が転がり出てきた。白梅が大事そうにそれを握る。
「白梅、あなたの役に立ちますか?」
「あい」
美しい目に深遠と混沌、人でないものの気配を宿している。その人間離れした気配はなじみ深く、心細い今の私を慰め励ますように思えた。
私は、白梅の主。乙女の館の主。
左腕の奥で契約錠が疼き、軋む。滅魂丹が効いてきたのか、身体が煮えるように熱く、痛む。
「白梅、選びなさい。――ひとりで外へ出て助けを呼び、白梅荘へ帰るか。それとも、ここで私とともに――」
「おやーたしゃま」
かさかさと小さく枯れてしまっているのに目に力が宿る。白梅は私を遮った。
「おやーたしゃまのいますところ、そこが白梅の居場所です。白梅はさいごまでおやーたしゃまから離れません」
白梅は掌の石を見つめた。青藍にきらきらと輝く結晶だ。
「ひーしゃん、です」
「とてもきれいです」
「あい」
白梅は愛おしげに結晶を見つめると小さな指でつまみ、口の中に放りいれた。ごくり、と呑みこむ。
「申し訳ない。本当は白梅といっしょに多々良が浜へ帰りたかった。でも――もう難しい。先ほど私が呑まされた滅魂丹という物質は私の中のハイブリッドコードを組み換えてしまいます。そしてその毒が私の身体から発散されて白梅、あなたの身体からもハイブリッドコードを駆逐する。白梅はただでさえ身体がもたないところにこの刺激を受けると危ない。そして私は生命力の残量が少ない。おそらく私たちふたりとも致命的打撃を受ける。それでもかまいませんか?」
「かまいません」
「私はこれから喧嘩をしますよ?」
「白梅はおやーたしゃまのお手伝いをします」
「まあ、どんな?」
「おやーたしゃまにがんばれ、をします」
それは心強い。つまり喧嘩する間、白梅が治癒支援で時間稼ぎをしてくれるというわけだ。
「白梅、勝利条件の設定をします」
「あい」
白梅の小さく熱い身体を抱きしめ、小上がりに半ば背中を向ける。
「私たちの身体は、私たちのものです。あの男の自由になどさせない」
「あい」
「そのために、ハイブリッドコードが解除される最後のときまであの川向こうの盟主に抗い続ける。それができれば私たちの勝ちです――よいですか、白梅」
「あい!」
一段高いところからこちらを見下ろしわなわなと震える川向こうの盟主を振り返り、睨みつけた。
「白梅のご当主、さっきから何をいってるんだ……。滅魂丹はハイブリッドコードキャリア専用の幻覚剤だろう?」
「違う。遺伝子を組み換えてハイブリッドコードを解除する物質だ。祟り神文書にそう書いてある」
「そんな馬鹿な……祟り神文書はあの山嵐が蔵ごと破壊して火をつけたから解読など――まさか、嵐太郎さんか。あの人が持ち出したのか」
川向こうの盟主はぶるぶる、と首を横に振った。
「ハイブリッドコードを解除する薬だなんて、そんなわけがない。――嵐太郎さんだって、村尾だって、あの山嵐だってわたしの身体から発散する滅魂丹のにおいを吸っても異能を使えていたじゃないか」
「でも一時的に異能が弱くなった。違うか? それにお前の身体にハイブリッドコードが一切ない、それもおかしな話だ。家令とはいえ播種拠点の古い家柄だ、ハイブリッドコードキャリアをその家系から輩出しただけでない。キャリアとの縁組も何度もあったはず。それなのに子孫であるお前の身体にはハイブリッドコードが完全に存在しない。――白梅、どうです? 検知できますか?」
「――はい、おやーたしゃまのおっしゃるとおりその男の身体にはハイブリッドコードが存在しません」
男が目を剥き、わなわなと震える。
「お前が何度も滅魂丹を使ったからだ。――それと同じことが今、私にも起きている」
「……」
滅魂丹の用法と容量が記されていた「島」の記録第三版には例として、直接投与するならば小刀で削った粉末を耳かき三分の一程度、と書かれていたはずだ。私が呑みこんだものは、小さいとはいえ石ころのようなサイズだった。
「ご丁寧にけっこうな量を口にぶちこんでくれたようだからな」
「し、白梅のご当主には効き目が薄いようだからより確実にと思って……」
「私の体内のハイブリッドコードは確実に解除されるだろう。そしてこの大巫女のハイブリッドコードも私から発散される滅魂丹の成分によって解除される。大巫女の中にいる実験記録装置白梅も居場所を失い壊れる。力と命を失いハイブリッドコードキャリアでなくなれば我らはただの骸だ。そんなものなど何の役にも立たないだろう。――どうだ、満足か」




