第三十話 虎落笛(十一)
戸の前で私は足を止めた。陋屋は記憶のままの姿を保っているように見える。物音はしない。ただ人の気配、そして白梅の気配を感じる。ここでぐじぐじためらっても仕方ない。意を決して戸に手をかけ一気に横に引いた。
冬の力ない日光とはいえ、快晴。真っ青に晴れ上がった青空が明るい。それに慣れた目を屋内の暗さに急に合わせられない。光の残像がちかちかするのをこらえて中をうかがう。
青い。
暗い屋内の奥に青い粒子の塊がある。その青い塊は白梅の身体にまとわりついていた。
「――白梅!」
「ん、ん!」
土間の向こう、ふすまが取り払われ、見通せる奥の間に、幼子の姿をした白梅が縛られ、転がされている。猿轡までかまされている。何ということを。怒りに前後を見失い、そのまま戸をくぐり白梅に駆け寄ろうとして捕らえられた。
――しまった。軽率だった。
そう思ったときはたいてい手遅れだ。白梅に気を取られ、甘ったるい洋物の香水、そしてマスクしきれない苦いにおいが漏れていることに気が回らなかった。肩と、そして顔に手をあてられ、後ろへぐい、と引き寄せられる。ちらりと見えたのは初老の男、川向こうの盟主だ。そう思ったのが早かったか、顔にあてられた手がずずずと動き、太い指が口の中に入ってきた。
「――? ――!」
噛みつこうと思う間もなくすっと指が退けられ、口と鼻を押さえられた。口の奥、喉に近いところに固い何かがある。
――小さくて固いもの……薬、……まさか!
全力で抵抗したが、口と鼻を押さえられたまま、頭を後ろへぐいぐいと引かれる。喉を晒す形だ。呼吸を禁じられ、暴れるうちに喉の奥へ固い何かは滑り落ちていってしまった。
「よし、呑んだか」
身体が解放され、土間にくずおれる。吐きだそうとしたが、完全に呑みこんでしまい、出てこない。
「……これは、何?」
「滅魂丹だよ、白梅のご当主」
ケイさんが解読した滅魂丹のレシピを思い出す。
まずい。
目の前の愚かな男は対ハイブリッドコードキャリア幻覚剤だと思いこんでいるが、滅魂丹の真の効能はハイブリッドコードの組み替えだ。体内のハイブリッドコードすべてを書き換えるには滅魂丹も時間も多くかかる。その過程でハイブリッドコードキャリアは幻覚を見たり、異能を使えなくなったりする。「島」ではハイブリッドコードへの影響ができるだけ少なくなるよう量を減らして投与することで獣化異能者の凶暴化を押さえたわけだ。
目で確認したわけではないが、口の中にあった違和感からして直接投与されると危険な量だ。じきに身体の中で吸収されハイブリッドコードの組み換えと、その組み換え物質の発散が始まってしまう。私のアドバンテージは異能しかないのに。喉を押さえげえげえ、と嘔吐く私に構わず、男はすたすたと土間を横切って部屋に上がり、白梅の手足の拘束を解いた。
「ほうら、小梅ちゃん、あんなに会いたがっていたおやかたさまが来てくれたよ。よかったねえ。でも」
猿轡をかまされたままの白梅の髪を掴み、
「白梅のご当主はわたしのいうことを聞いてくださらない。――大巫女はどうした」
とこちらを振り返った。咳きこみながら睨み返す。男はまた白梅に視線を戻し、にやにやと笑いかけた。
「さあ、小梅ちゃん、おやかたさまのところへ行くといいよ」
髪を掴んでいた手を放すと、男はくい、とこちらを顎で指した。支えを失い、ばたり、と畳に打ちつけられた白梅はそれでも顔を上げきっ、と男を睨み立ち上がった。転びそうになりながら土間へ降りてこちらへ駆け寄ってくる。
「――白梅」
かすれた声しか出ない。震える指で猿轡を外してやりながら、白梅の身体を検める。丈の短い寝巻は帯が緩んでいる。捲れた袖から見える腕の内側や裾が乱れて露わになった太ももに赤黒い痣が浮いている。指で乱暴に掴んだ痕だ。やはり白梅は強情を張って大巫女のことを話さなかったのだろう。どのような仕打ちを受けたか、想像すると身体中の血が煮えてしまいそうだ。やっと猿轡が外れた。
「白梅。遅くなってすみません」
「よいのです。それはよいのです――」
白梅を抱きとめた。身体の周りに青い粒子の塊がふわふわと漂っている。よく見ると、その青い細かい粒子は白梅の身体から少しずつ漏れ出ていた。そして粒子は白梅の身体に戻ろうとしばらく浮遊するがかなわず、地面に落ち消えてしまう。震える手を白梅の頬にあて、顔を覗きこむ。
「ああ、そんな……」
昼前まで、あんなに桃の実のようにふくふくとしていたのに。
ひと房白髪が生え、髪がかさかさと艶を失い、肌が萎びしみが浮き出している。身体は幼子のまま、白梅は急激に老化しはじめていた。
「あの男の身体から変なものが漏れ出ていて、こうなってしまいました」
「小梅ちゃんはなかなか強情なお子さんですな」
男が小上がりの板敷きに仁王立ちしたままでこちらを見下ろした。
「何度お願いしても大巫女の居場所を口にせんのですよ。どうも効き目が薄いらしい。そこでご当主、あなたにも協力してもらおうと思ってねえ。呑んでもらいましたよ、滅魂丹を」
まだ、代謝は始まらないはずだ。でも身体の感覚がおかしい。しんしんと冷える土間に膝をついているのに、背中を汗が伝う。焦るな。落ちつけ、私。
じーちゃん。じーちゃん、最後くらい役に立て。
埋めこまれた記憶。一手、さらに先の一手を読む戦略眼。頭に変なものを仕込みやがった、孫を孫とも思わぬサイコじじいに似ているというのが業腹だが、使えるものは何だって使ってやる。頭の中で火花が散るようだ。考えろ。残り時間は少ない。できることも少ない。ならば何を優先して何を捨てるか考えろ。最善の一手は何だ。
そうだ、もう決まっている。私のすべきことは決まっている。初めは祖父が導いたとしても、目の前の川向こうの盟主に脅されても、たとえ実験記録装置である白梅が抗ったとしても。
私は、白梅の主。乙女の館の最後の主。私にはやらねばならないこと、守らなければならないものがある。
背筋を伸ばした。
「お前の目的は、何だ」
「ですからね、大巫女を――」
「大巫女を、白梅の乙女を得て何をする」
こちらを見下ろす男の目に、私と白梅を侮り勝利を確信する慈悲のない驕りが見える。
「わたしはね、かつて隆盛を誇った播種計画拠点を復活させたいんですよ。近代的な設備、先鋭的な研究で定評のある科学者、研究を利用した商品で得た利益をもとでにして知恵者の科学を現代によみがえらせる、わたしら一族の夢があと少しで実現するところだったんですよ。白梅のご当主、あなたのところの大山嵐がめちゃくちゃにしてくれましたがね」
「それで拠点の長になろうという魂胆か」
「実験記録装置はね、『島』から朽ち縄をつれてきましたからねえ。あとは白梅の大巫女の不死のからくりを解明して、白梅の乙女であるあなたがたがハイブリッドコードキャリアを産めばよい。私自身にはハイブリッドコードがありませんがね、あなたがたふたりと交配すれば私もハイブリッドコードキャリアの父親だ」
おぞましい。
「ハイブリッドコードキャリアの女性体は不妊率が高い。不妊でない場合であってもなかなか子を授からず、しかもその子にハイブリッドコードが発現するとは限らない。川向こうの盟主とやら、そんなことも知らないのか」
ふん、と男が鼻で嗤った。
「そんなことは百も承知ですよ。ただねえ、人間社会ではここ百年で劇的に医学が進歩してるってのに、白梅荘ではその果実を取り入れ活用するどころか、乙女を減らす一方じゃありませんか」
男の顔に熱に浮かされたような表情が浮かぶ。
「わたしだったらご当主、あなたに最先端の不妊治療を試すがね。この一年近く、共に暮らしながら妊娠させもせず、あの山嵐は何をしていたんだか」
ケイさんの話を持ち出すのは私を動揺させて大巫女の居場所を吐かせようという魂胆なのだろう。乙女契約から解放された大きい人に少しだけ、思いを馳せた。
遠くに目を遣った私を、白梅が心配そうに見上げる。だいじょうぶ、だいじょうぶ。白梅の背中を撫で、微笑みかけた。




