第二十九話 虎落笛(十)
近づいている。白梅に近づいているのを感じる。細い道に入った。がたがたと車が揺れる。
「白梅の、小さい乙女を連れて多々良が浜へ戻るといったな」
「ええ。申しました」
「じゃあ、――なぜネズミを捨てた」
バックミラー越しに視線が一瞬、きつく絡む。
「――あの人と私の問題です。余人に関わりのないことです」
「痴話喧嘩だとでもいうのか。――白梅の、アンタまさか、死ぬ気じゃないだろうな」
ふっ、と鼻で笑っておいた。
「周平さん、あちらの人数は?」
「川向こうのガキ、ひとりだけだ。あいつは先代と違って人望がなくてな」
人望よりもどのくらい情報を握っていてどんな戦略を立てているかが問題だが、これだけ手数も資金も、拠点さえも一気に失ってしまうくらいだ。土台はとうの昔に緩んでいたのだろう。
ただ、軽く見積もっていい相手ではない。
こうして周平を迎えに寄越したのは、手数が足りないからでもあるが、何よりそこから情報を抜きとられても川向こうの盟主にとって痛手にならない、その程度しか与えていない、そのことを意味している。何もかも失っているように見えるがまだチャンスをうかがっている。
人数が少ないのはこちらも同様だ。しかも人質をとられている。何とか勝ちを毟り取らねばならない。
「ところで『島』の実験記録装置は外に置いてあるわけでなく、すべてあなたの体内にあるんですよね?」
「――まあな。それがどうした」
「朽ち縄と意思の疎通が可能ですか?」
「――いや、できん。何がいいたいんだ、白梅の」
「実は――」
少し迷ったが、いってみた。
白梅荘の実験記録装置白梅は、長でなく大巫女に憑依する。白梅は主人格を憑依体の中に作り、運動機能だけでなく思念などすべてを必要に応じ制御するが、憑依体人格と意思の疎通はしない。そして、あくまで憑依であって、白梅の本体は別の場所にあるらしい。
今分かっているのはこんなところだ。
「あなたと朽ち縄の場合はどうかと思いまして」
「こちらから働き掛けることはほぼできない。向こうからなんとなく腹が減っているだのあれは嫌だののなんのというサインのようなものがくる、そのくらいだ。そして朽ち縄に身体のコントロールを渡したことはない」
梅雨の日、夜明けに見た斑に輝くぬめった肌、開いた瞳孔を思い出した。あのときもコントロールを渡していなかったのか。
「――夏以降、川向こうの盟主とやらに例の薬を使われていませんよね」
「アンタにあの情報をもらってからは気をつけるようにしているが」
「今日、川向こうの盟主は例の薬、滅魂丹を使っていました。――あれはあの男の手もとで作られたものですか」
「そうなんじゃないのか? 何がいいたい、白梅の」
この人は滅魂丹のことを本当に知らない。この夏、滅魂丹の存在が明らかになるまで知らずに何度もあの特殊な毒の影響下にあったかもしれない。
民家を見かけなくなってしばらく経つ。林を抜ける狭い道を抜ける。なんとなく見覚えがある。もうすぐだ。
「あなたがたは滅魂丹を、ハイブリッドコードキャリアだけに効果のある幻覚剤だと思っている。私もそう思っていました。本当は違う」
「何の冗談だ。――まさか」
「ええ。ケイさんが『島』の記録と祟り神文書を解読しました。滅魂丹はもともと『島』で作られたものです」
道の真ん中で、車が止まった。
「じゃあ、――川向こうのやつらのめあては……」
おそらく、川向こうの盟主の父親、先代盟主の狙いは初めから「島」だった。「島」で長のいない間の不測の事態に備えて備蓄されていた滅魂丹とそのレシピを奪い取るために、拠点に不満を抱く若いハイブリッドコードキャリアに近づいた。
計画をいったん祖父に振ったのは、今となってははっきりしないがおそらく、周平と父の交誼が川向こうの先代盟主に知られていたからだろう。美奈子さんの行く末も長期にわたって把握していたくらいだ。「島」から滅魂丹を奪うために二重三重に策を弄したに違いない。明子さんやおば様の情報も押さえていた可能性もある。祖父の執着も利用されたのだろう。川向こうの先代盟主は念入りに次世代に向けた布石を打っていたわけだ。忌々しい。
「周平さん。――降ります」
「――」
ドアを開け、身体を半分車外へ出す。
「生き延びることが目的、そうおっしゃいましたね」
運転席でハンドルに顔を伏せる周平に語りかけた。
「――それならばこのまま引き返すことです。ここから先、足を踏み入れれば生きて帰れません」
「白梅の、――詩織!」
砂利の露わになった轍の先にぼうぼうと丈高い草が生える枯野がある。いつも靄に覆われていた記憶の風景とは違い雲ひとつない青空が広がる。その青空にひびを入れるように、葉の落ちた灰色の枝を広げる朴の大木がある。そして視線を転ずると陋屋。三十年も経つというのに記憶どおりのたたずまいだ。
間違いない。ここに白梅がいる。
風で飛ばされたのか、大きな朴の落ち葉が細く踏み固められた道を覆っている。
ばりり。
乾いた大きな葉が草履の下で思いのほか大きな音を立てる。気配を悟られたろうか。しかし躊躇している場合ではない。不気味なほど静かな陋屋へ、私は急ぎ足で向かった。




