第二十八話 虎落笛(九)
扉の吹き飛んだ大広間の入口に立っていると、廊下の向こうから人がやってきた。私の姿を見てぎくり、としていったん止めた歩みを忙しなくして近寄ってくる。
ぞぞぞぞぞ。
身体が悪寒で震えるのを止められない。周平だ。臭い。いやなにおいだ。今なら分かる。ハイブリッドコードキャリアから抜きとった契約錠。私の身体にも同じものが入っている。きっと私も臭うに違いない。
目の前までやってきた周平が表情を厳しくしていった。
「白梅の、どうした、その血は――」
そして大広間の床に横たわるケイさんを見て、息を呑んだ。
「――殺したのか」
「殺してません」
「じゃあ」
「解放しました。――川向こうの盟主とかいう男のいっていた迎えというのはあなたですね。さあ、行きましょう」
愛着とも憎悪ともいえない、いわくいい難い感情の露わになった目つきで大きい人を見つめていた周平が私を振り返った。縦長スリット状の瞳孔をきりきりと細く絞っている。
「大巫女はどうした」
「ここにはいません」
嘘ではない。
「何度も調べたんでしょう?」
「――大巫女を渡さないと小さい乙女は返せないぞ」
「小梅が手もとに戻らなければ同じことです。さ、行きましょう」
周平に伴われ、車に乗った。車のことはさっぱり分からないが、上等そうだ。スモークガラスだったり、外装は黒ずくめなのに逆に内装がちかちかと明るい白だったりして、ちょっと趣味がよろしくない方向にお金がかかっている気がする。後部座席に納まり、腕組みする。上等そうなシートに血まみれの状態で腰かけるのは気後れするが、そんなそぶりは見せない。
時間がない。早くしなければ。
ハンドルを握る周平がバックミラー越しにちらちらとこちらをうかがっているのを感じる。無視して窓の外に目を遣った。
白梅。
まだ気配が遠い。川向こうの盟主が滅魂丹で白梅を苛んでいるかと思うと居ても立ってもいられない。車は生活渋滞に阻まれながらゆるゆると東へ向かっている。
やがて県境の川が近づいてきた。周平がバックミラー越しにこちらをじっと見ている。
「白梅の、休憩するか?」
「不要です」
「まあ、そういわず――」
「不要です」
車が県境の川を渡り始めた。東京へ、さらに東へ行くつもりか。
「周平さん」
「なんだ」
「降ろしてください」
「は?」
バックミラーに映る周平が目を剥いている。本気で驚き呆れているようだ。
「降りてどうする」
「一人で行きます」
「なんでだ? だいたいそんな血まみれの恰好じゃすぐ警察に通報されてしまうぞ」
バックミラーを睨みつけた。
「だったら何? この車に乗ってたところで辿り着かない。遠回りするつもりでしょう? 大巫女を連れてこない場合は時間稼ぎしろとかあの川向こうのなんとかって男にいわれてるわけ?」
「白梅の――、アンタ、あの小さい乙女との隔たりがどのくらいか分かるのか」
無言で睨みつける。
「――確かに大巫女が一緒でない場合は夜まで時間をつぶせといわれたな。川向こうのガキの屋敷跡なんぞを見に行くドライブもオツだと思ったんだが気に入らないか、白梅の」
「一刻も早く小梅をあの男から離さなければ大変なことになります」
「大変なことって何だよ」
祖父はこの男に大巫女のことを話さなかったのか。
「大巫女は白梅荘の奥深くに隠された六百歳になるばあさんだと聞いているぞ。――まあ、オレはもう大巫女というのは死んでるんじゃないかと思ってるんだがな」
「川向こうの盟主の、小梅の扱い方によってはそうなりかねません」
「まさか、大巫女は――」
「小梅です。あの子を切り刻んで実験材料にされては困ります。大巫女であり、最後の乙女ですから」
「白梅の、そういう大事なことは早くいえ」
周平の目に明白な焦りが浮かんでいる。急にスピードを上げると、あっという間に県境の橋を渡りきり、川沿いの道路を上流へ向かって走らせた。
「周平さん、あなたの目的は何なんですか」
「白梅の、――アンタには関係ない」
バックミラー越しに睨み合う。
「じゃあ訊くが、白梅の、なぜネズミを捨てた」
「あなたには関係ありません」
川と近づいては離れ、車は速度を上げ上流へ向かっていく。感じる。白梅が近づいている。山間の道に入った。葉の落ちた木々の枝が針のように鋭く天を衝く。多々良が浜のあたりは温暖でまだ蔦紅葉やら銀杏の黄葉やら、秋の名残りが感じられる。しかし標高が少し高くなるだけで、空に少し近くなるだけでこんなにも景色が違う。木々の間からちらりと見えた遠くの山はうっすらと冠雪していた。冬だ。
「周平さん――」
「なんだ」
「もしかして、あの家に向かっているんですか」
靄に包まれた野原。白い視界のなかにぼんやりと浮かぶ大木の影。私が高熱を発し、触手を抑えきれなくなるたびに連れて行かれた陋屋。記憶の中のその家は、いつも白い靄、墨絵のような色彩に沈んでいる。
周平がすっと目を眇めた。
「思い出したのか」
「ええ」
「封印が解けたのか。全部」
「おそらくは」
そう答えたとき、周平の目に喜びの色が過った。一瞬で消えてしまったが、確かだ。何が嬉しいんだろう。怪訝な表情がでないよう、気を引き締め無表情を装う。
「白梅の、川向こうのガキと会ってどう決着をつけるつもりだ」
「どうもこうもありません。小梅を取り戻し、多々良が浜に連れて帰ります」
「そうか」
周平の動きがふらふらと定まらないと分かっていて、川向こうの盟主は手下にしているんだろうか。それとも手札の残りが少ないのか。いずれにせよ、油断は禁物だ。
「以前、周平さんがおっしゃった、――気が狂いそうなことを生まれてこのかた幾度となく経験してきたというのは、生命力増幅のために刺した契約錠のことですか」
「そうだ。――契約錠の秘儀を知ればアンタが苦しむのは分かっていた。それでもあのときあのまま死なせるわけにいかなかった」
「祖父がそう、望んだから?」
周平と、目が合った。
「そうだ。そして京子の望みでもあった。白梅の、アンタの腕の中に埋まっている契約錠はオレの中にあるものと使用目的が違う。生命力の流失を抑えるために、契約錠でエネルギーの流れを一部を堰き止めてある」
「分かっています。だからといって祖母を犠牲にした事実が変わるわけではありません。――周平さん、もう一度うかがいます。あなたの目的は何ですか?」
前方に目を遣ったまま、周平が答えた。
「生き延びることだ」
窓の外を冬の木立が飛ぶように過ぎ去る。
生き延びることに意味はあるのか。
そう問いたい。でもやめておいた。意味がある、意味がない、あるいは分からない、どんな答えが返ってきても納得いかない、そんな気がする。




