第二十七話 虎落笛(八)
年の頃はせいぜい四十行くか行かないか、若くはないがしゃっきりと背筋が伸び、爪の先までぬかりなく手入れの行き届いた背の高い和装の美女が陋屋へやってきた。大吾の愛人、京子だ。見た目と違い大吾より年上で実際の年齢は八十歳を超えている。京子は白梅の乙女で長命種である。怪訝そうに寄った眉根、険のある目つきに癇性な人柄が表れている。
「旦那様、こんなところに呼び出すなんて。何のご用でしょう」
そしてきっ、と敵意も露わに周平を睨みつけた。
「――そしてこちらの方は?」
「友人です。見た目は若いですが、わたしと年齢は変わりません。力ある者の一人ですよ」
「そう」
京子は値踏みするように周平を見たのち、ふっと肩の力を抜いた。
詩織の身体の変調、解決策について大吾が説明した。泣いて喚いて惑乱するとばかり思っていたが、そうならなかった。
「要するに私に死ね、とおっしゃりたいのね。――分かりました」
頷く京子に周平がいった。
「えらくあっさりしたもんだな。本当に分かってるのか?」
「分かってますよ。何なの? 泣き叫べばよかったわけ?」
尖った目つきで周平を睨む。が、すぐに表情を改めた。
「詩織のことが心配なのはあなた方だけじゃありませんよ。私はあの子の祖母なんだから、あなた方なんぞよりずっとずっと気にかけてます。誰が何といおうとそうなんです。異能がたくさん発現する鵺に生まれついてしまって、詩織はこのままじゃ長生きできない。私の頭に埋まってるあれ一本で孫が生き延びることができるんなら安いもんですよ。それにね」
大吾を見遣り、京子はやわらかな笑みを浮かべた。
「私はもう充分、長く生きました。ひと思いにやってくださいまし、おやかたさま」
* * *
何度も夢に見た。なじみある凄惨な光景は、温度やにおいまでくっきりと記憶しているのに幻想的な芝居のように現実味が薄い。
――できるだけ、痛まないようにします
――いいの。痛くていいの。
散る。鮮やかな朱。
色を失った世界の、その部分だけが朱い。
光。闇。光。コマ送りのように、ついては消え、ついては消える。点滅する記憶。
――よく見ていなさい。
――詩織、成功させるには条件があるのです。場所とタイミング――それからことばを間違ってはいけませんよ。絶対に。
やめて、やめてやめて。
――さあ、解放して。わたしのおやかたさま。
――ありがとう、わたしの乙女。あなたを解放します。
ぶちり、とちぎれる音。きらきらと透明に輝き湾曲するそれが散る朱とともにぬったりと現れる。
ああ、酔う。血のにおいが濃い。
* * *
「大吾。しっかりしろ」
「――すみません」
大吾が詩織と向かい合う。ぼんやりと祖父を見上げる詩織の頭を掴み、周平には見えない何かを使って大吾は記憶を封印した。
「覚えなさい。そして忘れなさい。鍵を見つけるそのときまで」
詩織がこくり、と頷き、そして気を失った。ぐったりと横たわる幼子のそばに座った大吾はその小さく細い左腕を掴み、上に伸ばした。周平は幼子の枕もとに控え、触手の暴発に備え小さな頭を押さえている。周平には詩織の繰り出す触手の気配は感じられてもその姿は見えない。今までも発作のたびに見えない触手をかいくぐり、時に傷つけられながら詩織が自分自身を傷つけないよう守ってきた。今度は詩織だけでない。秘儀を執り行う大吾も守らねばならない。
「大吾。用意はいいか」
「ええ。やりましょう」
京子の脳から抜いた契約錠が陋屋の窓から射す日の光を反射してきらきらと輝く。大吾の目に迷いはない。契約錠の向きを確認し頷くと、大吾は膝立ちになり契約錠を詩織の掌に刺した。気を失っていた詩織の目がかっと開く。
「うわあああああ、ああああああっ!」
周平がぐっと上から頭を抑えるが、間に合わない。詩織の頭の下から一斉に無数の触手が飛び出した。大吾は構わずそのまま下へ向かってぐぐぐ、と契約錠を押しこむ。契約錠は血の噴き出す掌から更に奥へゆっくりと呑みこまれ、そしてかちり、と納まった。同時に尖端が大吾を襲う寸前で殺到する触手がぴたり動きを止め、すうっと姿を消した。
「周平、約束ですよ。ちゃんと守ってくださいね」
「ああ、分かってる」
血にまみれた大吾の手から力を失った小さな手が滑り落ちた。幼児の身体に見合わないほど大きな契約錠を呑みこんだというのに、その掌に開いていたはずの穴は初めからなかったように塞がっていた。
その後あんなに頻繁に起きていた発作が治まり、詩織は健康になった。それを見届けて安心したかのように大吾はしばらく後にこの世を去った。
* * *
ばーちゃん。いつも怒ってばっかりだったばーちゃん。
「おばあちゃんはねえ、怒ることが楽しみなんだ。だからおばあちゃんが怒っていても気にしてはいけない。今日も怒るネタが見つかったんだなあ、よかったなあ、って思っていればいいんだよ」
父がそう苦笑していたものだ。
「……うっ……うぐっ……」
この左腕に埋まる契約錠が祖母のものだったなんて。祖母を生け贄にして生き延びただなんて。
「う……ううっ」
吐き気をこらえる。おぞましい。本当に私はおぞましい。ばーちゃん、ごめん。ほんとうにごめん。でも私はまだ死ねない。白梅を取り戻しに行かねば。
左腕に埋まる契約錠について、そして川向こうの盟主とどう対峙するかについて、考えた。そしてすぐそばで眠る血まみれの大きい人を見つめた。
結局ケイさんにも嘘をついてしまった。
祖父から受け継いだ義務に縛られて、大きい人を置き去りにしてしまう。初めて出会った日からケイさんのことが好きで、一緒にいればいるほど好きになって、そして大きい人の私への思いが嬉しかった。
――少しでも長く一緒に。
この望みはかなわなかったけれど、そう思ったのは嘘じゃない。でもこの人に幸せになってほしい。だから私から解放した。これでよかったのだ。私はゆったりと規則正しい呼吸を繰り返す大きい人に口づけた。
「愛してる」
ずっといいたかった。でもどんなことばも口にするそばから嘘になる。
川向こうの盟主は「迎えを寄越す」といった。私の様子、白梅荘のどこかにいると思いこんでいる大巫女の動向を探るためにその迎えとやらはあまり時間をおかずにやってくるはずだ。もうそろそろ時間がない。私は立ち上がった。




