第二十六話 虎落笛(七)
跪く大きい人の頭を両手で押さえる。探ったりしない。迷ったりしない。一度で過たず、額とつむじの間の目指す場所に口づけ歯を立て、頭皮を食い破る。
ぶちり、とちぎれる音。
びちびちと滴る音とともに血が噴き出す。頭骨の一点、目指す突起を前歯で挟む。
散る。鮮やかな朱。
――あった。
しっかりと大きい人の頭を掴み直し、膝を立て、上に、そしてわずかに大きい人の背後に向かって自分の頭を動かし、そのままそれを引く。ゆっくり、しかし、遅すぎず。
きらきらと透明に輝く大きな魚の骨のような、弧状に湾曲するそれが散る朱とともにぬったりと現れる。乙女の契約錠だ。
大きい人の脳を無傷で解放しなければならない。焦るな。懼れるな。左右にぶれず、まっすぐに。私はそれを歯で挟み、すべて引き抜いた。左手で鋭く尖る、十五センチほどの契約錠を掴む。
散る。鮮やかな朱。
うろたえるな、落ち着け、私。泣くな、泣いてる暇などない。
右腕一本で意識をなくした大きい人のずっしりと重い体を支え直す。そして噴きこぼれる血にまみれながらそっと、その場に横たえた。
理沙嬢の抜き針の儀のときと違い、誰も私をサポートしてくれない。独りでやり遂げなければ。あのときは、大きい人が私を助けてくれた。
――両端を握るんだ。
――さあ。
両手で契約錠を握る。ぬるぬると血で滑る。がくがくと体が、手が震える。鋭く尖った端が私の掌を抉り、手の中でしっかりと固定された。
――そして外に向かって折れ。
あの時のように導かれるまま、手を動かす。
きん……!
高く澄んだ音を立てて契約錠が割れ、砕け散った。
手が震える。黒いネクタイを震える指で解き、もどかしく毟り取りシャツのボタンを外し、露わになった胸に耳をあてる。
とく、とく、とく、とく……。
「よかった……生きてる」
ゆったりと規則正しく上下するあたたかい胸にすがって泣いた。そしてしゃくり上げながらさっき穴を開けた頭蓋を恐る恐る確かめる。
「ない。……よかった。ない」
ごわごわとした白髪交じりの髪をかき分け探る範囲を広げるが、契約錠を抜いた穴は初めからなかったように塞がっていた。嗚咽や感情の昂ぶりで呼吸や鼓動が乱れている私と違い、眠る大きい人の呼吸は規則正しく、穏やかだ。大きい人の頭を抱き締め、しばらくその呼吸する音に耳を傾けた。
分かっている。
――それでいいんだな?
私は人生のわずかな残り時間すべてをきっと後悔に費やす。ああすればよかったのか、こうすればよかったのか、ときっと。分かっている。
祖父から引き継いだ義務を放棄してもなお館の主であることを、目の前の私のただひとりの人を差し置いて優先した。
大きい人を白梅の乙女から、主である私から解放すること。これは今の私の前にのびる一本道のどこかで、しかしできるだけ早い時点で行わなければならなかった。時間をさかのぼって何度この場面に戻りやり直すことができるとしても、心が引きちぎられる思いをすると分かっていても結局私は同じことをする。
――これでよかったんだ。
分かっている。ああ、分かっている。でも心がついていかない。
まだやらなければならないことがある。
分裂し、風穴やセノーテに取りついた探索子を集めてひとつに組み立て直す。風穴で元の姿に戻った探索子を再び沈めた。
風穴の下は白い岩盤に深く開いた洞窟で、透明度の高い水で満たされている。セノーテはいつもの明るい青でなく、大きい人が眠っているからか、藍色がかってほの暗かった。さっき大広間の床下から取り出した何かの結晶のような色だ。明るくないけれど遠くにある底までくっきりと見える。そこには深海底につながる煙突のような大きな塊があり、そこからぷくぷくと泡が出ている。
セノーテの入口で、大きい人の美しく穏やかな心の景色をしっかりと目に焼きつけた。
探索子からたくさんのケーブル状の触手を繰り出す。鍾乳石のような突起の近くにあるアンカーにそれを巻きつけ、ぼきり、と折り取った。
ざ、ざわざざ。
ざ、ざわざざ。
タイルがぎらぎらと明滅の速度を上げ、沸騰するように泡を噴く。セノーテと風穴に巻き起こる嵐を後に、私は探索子とアンカーを回収し脱出した。
あなたにはきっと分からない。理解してもらえなくていい。こうして乱暴に力を振るいあなたを傷つけ、こうして独り置いてゆく私のことなど忘れてくれていい。
私の光。私の熱。私の半身。生きて命をつないでほしい。
儀式にはあまり時間がかからなかったようだ。鎧戸から大広間の床に差しこむ光の角度があまり変わっていない。着物の胸もとが血まみれだ。きっと口のまわりも。拭おうとしてやめた。
あのときの、祖父みたいだ。
そう思ったとき、頭の奥で何かがゆっくりと起き上がった。この不愉快な感覚には馴染みがある。記憶の封印が解ける兆しだ。記憶の錠前がかたかたと震え軋む、まだはじまりの微かなその違和感。今度は逃げない。最後まできっちり暴いてやる。
* * *
詩織は大吾が待ちに待ってやっと生まれた孫だ。事業を継がせるために必要なのではない。人生の残り時間がわずかになってしまった大吾に代わって実験記録装置白梅を破壊するために。しかし脳の記憶野を強制拡張して記憶を刻みこみ、封印するとどうしても多大な負荷がかかり幼い詩織の生命力が損なわれてしまう。がっくりとうなだれる大吾をじっと見つめ、周平はいった。
「大吾。オレに考えがある」
周平が語ったのは、『島』に伝わる秘儀だった。
生命力の強い王化異能者である周平は鳥類と爬虫類の獣種が搭載された初めての獣化異能者でもある。だが、『島』の家令集団はそれだけでは満足しなかった。失脚して久しい昔の家令家から長が生まれた。しかもその長は異能レベルの高いハイブリッドコードキャリアを産んだ。何とか長の幼い御曹司を「島」の外へ婿に出すことに決めた。しかしこのままでは自分たちの地位が危ない――。現家令集団にとって王化異能者を得たのは僥倖だった。何としても周平の代から新たな獣種、龍人につながる世代を創り出さなければならない。そのために復元されたのが古い時代に禁呪とされていた儀式だ。
「ハイブリッドコードキャリアの異能が、ただ発現するだけでなく強化される仕組みは実験記録装置だけが知っているとされる。でも『島』では獣化異能者の凶暴性を抑えるための研究の途中でその仕組みの一部を解明したんだ。契約錠がどういうものかは大吾、知っているな」
「ええ、もちろん」
実験記録装置との契約にあたって植えられる種、体幹に植えられるこれが時間の経過とともに育ったのが契約錠だ。種から契約錠が育つ際に刺激されてハイブリッドコードキャリアの異能が強化される。同時に体幹から体の隅々にゆきわたるエネルギーの流れが整えられる。
「オレの身体はもともと生命力が高かった。それでもばかすか種を播くには足りなかったらしくてな、『島』の家令連中は生命力を強化するために禁呪に手を出したのさ。体幹につながる場所に新たなエネルギーの通り道と増幅装置を設ける。その禁呪に使われたのが契約錠だ」
「新しく契約の種を……いや、それはできないはずです」
「そう。できない。使われるのはハイブリッドコードキャリアから抜いた契約錠だ」
「まさか……そんなことをしたら」
大吾は乙女を解放するために何度も抜き針の儀式を執行してきた。幸いなことに今まで一度も失敗したことがない。儀式の際に契約錠をちゃんと破壊したからだ。契約錠を破壊しなかったら――。
「そうだ。ハイブリッドコードキャリアは死んでしまう」
「周平――」
大吾が周平を抱きしめる。大吾の身体から生気が失われつつある。どんなに目を逸らしてもその事実は変わらない。潤いを失い萎び、しみが浮き出す疲れて痩せ細った体に、それでも意思の力が漲っている。
「周平、あなたが他人の犠牲の上に立って生きているとしても、それでもわたしは周平が生きてここにいてくれてよかったと思う」
こんな感傷的なことを口する男ではなかった。生意気なほど好戦的な目をして、才能をいかんなく発揮しつづけ剃刀と称された男だった。それなのに、年を取った。でも、皺としみに埋もれ力を失ったかに見える目はまだ死んでいない。ただ体をつなげるだけの女は何人もいた。中には長続きする女もいた。だけど周平にとって何が何でも望みをかなえてやりたい、そう思える人間は大吾だけだ。
「生命力の流出をせき止める? 契約錠を使って、ですか?」
「そうだ」
周平の体内の契約錠の位置、数、向きなどを調べ、詩織の小さな身体に埋めるならばどの部分か、さまざまな角度から二人は検討した。
「問題は誰の契約錠を使うか、ですね。私は白梅の主ですが契約なしに異能を強化されているイレギュラーなハイブリッドコードキャリアなので残念ながら契約錠を持っていません」
「当然、オレの契約錠だ」
「周平、無理です。私は乙女の契約錠でないと抜くことができません」
「じゃあ……」
二人は途方に暮れた。




