第二十五話 虎落笛(六)
大巫女を連れてこい、か。
川向こうの盟主にとって大巫女って何なんだ。白梅が憑依しているボディがそれだと知らないのは今回で分かった。白梅憑依体のことを小さいうちにスカウトした乙女ぐらいに考えているのだろう。愚かな男だ。そしてそんな男に振り回され、白梅にかばわれてしまっている私もまた、愚かだ。
誘拐された白梅を取り戻すためにどうするか、考えに耽った。白梅が持ちこたえて強情を張り続けるとどうなるか、考えがついそちらへ流れて心が乱れてしまい、なかなか戦略が定まらない。プライオリティを整理しろ、私。落ち着け。
そうやって考えこんでいてすぐには気づかなかった。こんなことは初めてだ。白梅荘から白梅の気配が消えてしまっている。
風が、がたがたと鎧戸を鳴らす。窓の隙間から漏れる外の光が明るい。時間の感覚がなくなっているがまだ昼間なのは確かだ。扉にもたれていた体を起こす。ぶるり、と震えた。幼子が連れ去られ、大広間が薄暗く寒く感じられる。
びし、びしりびし。
不穏な音がした。無力感に苛まれ重くなった身体に鞭打って近寄ってみる。音がしたのは大広間の中央だ。床に亀裂が入っていた。
ふるり、と頭を振って放射状に触手を展開する。二手に分けた触手の尖った先端を爪のように使って、床の亀裂をぐぐぐ、と押し広げ、剥がれた床材を取り除く。
穴だ。深い。
ゆっくりとケーブル状の触手を伸ばし、探りながら進む。何もないかと思われたが、穴の隅に小さな壜があった。こつん、と触れてみるが特に反応はない。複数の触手でそっと持ち上げ、穴から取り出した。
手のひらにすっぽりと収まるような小さな壜だ。それなのに意外に持ち重りする。半透明でつるりとしている。材質はガラスというより水晶に似ているような気がする。そっと振ってみると、ちりり、と小さく硬い何かがひとつ、澄んだ音を立てた。
少し離れたところに壜を置き、触手を使ってそっと蓋を外してみた。しばらく待ってから壜の口に触手を近づけてみたが、危険な気体が漏れだしたり爆発したり、そういうこともないようだ。壜と蓋を手もとに寄せた。壜を手に載せるとやはり、小さい見た目のわりにずっしり重い。引っ繰り返して掌に中身を空ける。青藍のきらきら輝く石が転がり出てきた。小さな結晶だ。
これが何か、今は考えない。白梅を取り戻しに行くとき、一緒に連れて行こう。元の壜に戻し手拭いで包み、懐に入れた。
さあ、どうする。何を優先し、どの筋を通し、そのために何を排除するか。早く決めなければ、川向こうの盟主とやらがいっていた迎えが来てしまう。
落ち着け。惑乱していてはだめだ。考えろ。
川向うの盟主とかいう、あの男の目的は何だ。滅魂丹の真の効能、製法。このおそろしい薬物の予想される残量。白梅の館の主としての自分の能力。その適用範囲。
そうだ。私に選択肢などない。樹形図のようにこのルートを選択すればこの可能性が消滅する、そんな贅沢など私には許されない。私の前にのびる道は一本だけだ。選択肢などなかろうが私にはどうしても譲れないものがある。さっき見つけた結晶の透きとおった青い輝きを思い出し、心を落ち着けた。
川向こうの盟主は大巫女が誰なのかを知らない。そして祟り神文書に載っていた滅魂丹の真の効能を知らない。しかし滅魂丹のレシピは知っている。確定している情報、不確定の情報、それらが私の前にのびる一本道にどう関わるかを分析する。これならば――私にはまだ打つ手が残っている。
廊下に大きな足音が響く。
「――詩織、詩織!」
「ここです! お願い、扉を開けてください!」
「離れろ」
廊下からぐぐぐ、と扉が押される。ばき、と嫌な音がして扉が開いた。
「ケイさん」
「無事か。怪我はないか」
「はい」
駆け寄ってきた大きい人が私を抱きしめる。愛おしい日向のにおいがする。ぎゅ、とすがりつくのに応え、大きい人が私の背中をさする。だいじょうぶ、だいじょうぶ。
泣くな。堪えろ。
「白梅が攫われました」
「聞いた。どこへ行けばいい」
「ケイさん」
顔を上げた。大きい人の切れ長の美しい目に戸惑う色が見える。
「じきに、迎えがきます。私ひとりで行ってまいります」
「俺も行く」
「ケイさん、よく聞いてください。執務室のあなたの机の引き出しに、封筒が入っています。白い角封筒で、縁にぐるりと青い線が入っています。それを――」
「詩織、こんなときに何をいっているんだ」
「聞いて。ちゃんと聞いて。難しいことは何もありません。その封筒に書類が入っています。勢田さんご夫妻に渡して、手続きしてもらってください。いいですね」
「詩織……」
大きい人が再び私を強く抱きしめる。
私は胸もとからプラチナのチェーンに通してあるオパールの指輪を取り出した。ぎゅ、と握って強く引き、ぶちり、とチェーンを千切る。そのまま大きい人の上着のポケットにその指輪を入れた。
「詩織、何を――」
身動ぎする私の様子に不審を感じたか、ケイさんの腕の拘束が緩んだ。一歩、二歩、後ずさる。頭をふるり、と振る。後頭部の肉の弁を開き、放射状に触手を展開する。左腕の奥で契約錠が軋む。
傍へ来ようとするケイさんを掌で制した。
「詩織――」
ぎりぎりまで意識を載せ、探索子を作る。それをケイさんの心の中へダイブさせた。やわらかな波動の漏れる入口。穏やかな風の吹く明るい風穴。はるか下にある泉の表面はきらきらと光を放つ。
いつもどおりだ。いつもの穏やかな心のまま、大きい人は私の探索子を迎え入れる。
「詩織、何をするつもりだ」
「……」
「俺はいつもどおり、きみをきみのまま受け容れる、それでいいんだな?」
いいとはいえない。しかし私は応えなかった。
風穴を落下しながら探索子が分裂する。一部は風穴の壁面、岩塊を這う木の根のような蔓のような意識の繊維にかじりつく。残りはセノーテへ潜った。分裂を繰り返し、数を殖やす。うすぎぬのような膜の辺縁にとりつくもの、セノーテの白い岩のような壁面に付着するもの、記憶結晶の裏側に潜るもの、深海底の入口にあるいそぎんちゃくのような煙突につくもの、それぞれの持ち場に落ち着いた。
大きい人は決して私を拒まない。拒んでくれていいのに。彼が拒まないのを知っていて、そんな勝手なことを思う。
緊張が高まる。風穴とセノーテの様子が変化しはじめた。
風穴の壁面を這う蔓状の意識の繊維の輝きが速度を増し、熱を持つ。セノーテが嵐の前の朝焼けのような不穏な色合いに染まり、泉の水がだんだんと温かくなってきた。壁面に埋まる記憶結晶がぎらぎらと光り、一斉に泡を噴く。
――従え。私に従え。
大きい人の美しい心の内部にとりついた私の探索子が一斉に動きはじめる。熱を持つ部分の感覚を遮断し、繋ぎ直す。堪え切れず、涙があふれる。私をじっと見つめる大きい人の目からも涙があふれる。
――従え。私に従え。
赦してくれなくていい。こんなふうにあなたの美しい心を弄って意思を奪ってしまう私のことなど、赦してくれなくていい。
「お、……おれを解放してくれ。おれの……おやかたさま」
「ありがとう、私の乙女。あなたを解放します」
すべてが噛み合う。条件が整った。
私は、白梅の主。乙女の館の主。抜き針の儀が始まった。




