第二十四話 虎落笛(五)
ふ、と梅の香りがした。
白梅が泣きやんでいる。視線を遠くに投げ、考えこんでいる。
「どうしました」
そっと声をかけると、私を見つめ重々しく
「おしっこ」
といった。ん? ――あ、お花を摘みにね。自然に呼ばれちゃってるのね。一緒に立ち上がろうとすると、白梅が首を横に振った。つややかな黒髪がさらさらと揺れる。
「そのまま。ひとりでまいります」
「一緒でなくてよいのですか?」
「はい。白梅は子どもではありません」
そのとおりなんだけれど。人間ですらないわけだけど。それでも見た目は幼児だけど。ふるまいも幼児そのもののような。問題は白梅が子どもかどうかじゃなくて、熱が高くて辛そうだから心配しているのだが。
白梅はすっく、と立ち上がるとすたすたと歩く。大広間から廊下へ出て、一度こちらを振り返った。ぐぐぐ、と重い扉を閉じながら白梅はにこり、と微笑んだ。微笑み返し、小さく手を振った。扉が閉まる寸前、白梅が廊下の向こうへ目をやり、表情を厳しく改めたのが見えた。
どうしたんだろう。
綿毛布をたたみ、私も立ち上がった。扉に手をかけようとしたとき、向こうから甘ったるい香水のにおいが漏れてきた。少し遅れてじわり、と苦いにおいが追いかけてくる。
――滅魂丹――!
「お名前は――小梅ちゃん、だったかね」
「――」
このにおい、忘れたくても忘れられない。川向こうの盟主だ。
「あの――あの、お客さん、もう案内はよろしいですよね? わたし、帰りたいんですけど」
「――よかろう。合鍵は置いていけ。金は――ほれ」
何かが廊下の床に放られる軽い音がした。少しおいてちゃり、と金属質な音がする。
「合鍵、――ここに置いておきますよ。あとは、わたし、関係ないですからね? 案内しただけですからね?」
女の声にも聞き覚えがあった。ここしばらく、マルカワカンパニーを通じて家事代行を依頼していた近在の女性だ。廊下を駆ける軽い足音が遠ざかっていった。
「さて」
川向こうの盟主の声が聞こえる。
「あとは小梅ちゃんに案内をお願いしようかねえ。ご当主はどちらに――」
扉に手をかけた。開かない。なぜだ。力をこめて動かそうとするがびくともしない。
「ここに――ここにおります!」
私が叫ぶと、川向こうの盟主が嗤った。
「――おやおや、小梅ちゃん、いたずらでも仕掛けたのかね。そこをどいてくれないとおじさんは白梅のご当主とお話ができないよ」
「どきません」
――白梅……!
そう呼ぶことはできない。うかつに情報を与えてはならない。
「小梅、ここを通してください」
「おやーたしゃま、いけません。なりません」
「小梅ちゃん、じゃあ、ご当主抜きでおじさんと遊ぼうか」
耳障りな声にぞわわわ、と肌が粟立つ。
滅魂丹。この物騒な薬の真の効能を思うとここで異能を使うのは危険だ。しかしそんなことに頓着している場合ではない。後頭部の肉の弁を開き、放射状に触手を展開した。一斉に扉にとりつく。見た目は透きとおった触手で同じ能力を持たない人には見えないが、物理攻撃の際に都合よく障害物を透過したりしない。手だけでなく、触手も使い、取っ手に巻きついて動かそうとしたり、隙間を探ったり、扉を開けようと努めたがびくともしない。左腕の奥がじくじくと疼く。そして滅魂丹の成分に触れた触手にじわり、と痣が浮かぶ。
「――小梅、ここを開けなさい!」
「いやです」
「小梅ちゃんはおじさんがご当主とお話をするのが嫌なのかねえ」
「いやです」
「おやおや、なんでもいやだいやだ、のお年頃かねえ。――じゃあ」
川向こうの盟主がふふふ、と嗤う。滅魂丹の苦いにおいがじわり、じわりと扉の隙間から漏れだす。
白梅。お願いだから逃げて。
白梅が憑依する大巫女の身体もハイブリッドコードキャリアだ。川向こうの盟主の体から発散される滅魂丹の成分に長時間さらされると危険だ。
「白梅の大巫女さまはどちらにおいでかな」
――え?
どういうことだ。
確かに小梅が大巫女であることも、小梅の身体に実験記録装置白梅が憑依していることも、公表しているわけではない。
「こちら白梅荘の奥深い場所に大切に隠され生き続けている、齢六百になるという大巫女さまにお目にかかりたい」
この男は目の前の幼児が大巫女だと知らない。
「小梅、いってはなりません」
白梅、気づけ。白梅――。
「おやーたしゃま」
「いうな。口に出しては駄目」
「ご当主、余計なくちだ――」
廊下の向こうから声が近づいてくる。
「――詩織ちゃん、広間なの、そこに――。小梅ちゃん!」
真知子さんだ。しまった。もう葬儀が終わる時刻か。忙しない足音が近づき、止まる。
「まあ。今日は頼んでもいないお手伝いさんが来ていておかしいと思いましたら」
ちゃりん――。金属質の何かが廊下を遠くへ滑っていく音がする。
「買収ですの。マルカワも舐められたものですわね」
つかつかつか、と足音が勢いよく近づいてきたと思ったら、すぱーん、と廊下に鋭い平手打ちの音が響く。
「何をする、この婆」
「いい歳をした爺にいわれたくありませんわ。この下郎が。ぐったりしているじゃないの、その子を放しなさい」
「マルカワの会長か。女傑だという噂は本当だな。会長さんよ、大巫女はどこだ」
「小梅ちゃんを放しなさい!」
「真知子さん、危ないから、やめて、やめてください」
男の発する怒声と、人が揉み合う音が扉の向こうからする。ごつ、と響く打撃音とともに重い何かが床に叩きつけられる鈍い音がした。
「ばあさんのくせに無茶しやがる」
「真知子さん――! 開けて、ここを開けて!」
また廊下の向こうから人が走ってくる音がする。
「――会長!」
「おっと、それ以上近づくな。お宅の会長の首をへし折るぞ」
「な、何を……会長、会長!」
いくら取っ手を握って回そうとしても、動かない。扉が開かない。
「お願い、もうやめて。これ以上はもう――」
「白梅のご当主、後で迎えを寄越す。子どもの乙女を返してほしければ大巫女を一緒に連れて来い。――ご当主と大巫女だけだ、山嵐は抜きでな」
足音が一人分、去った。
「開けて、ここを開けて!」
「白梅様、中にいらっしゃるんですか」
「ええ。真知子さん、真知子さんは――」
「大丈夫です」
いつもつやつやの高級車で真知子さんを送迎する部下だという男性がいち早く普段の落ち着きを取り戻した。
「気絶されました。――少し怪我をされましたが大丈夫です」
男性が外から大広間の扉を開けてくれようとしたのだが、やはりびくともしない。
「こちらは結構ですので早く真知子さんを病院へ」
「しかし、白梅様が」
「かまいません。あの、もし可能でしたらうちの五木に言伝を――大広間にいる、と」
「かしこまりました」
「真知子さんを――よろしくお願いします」
扉の内側で、私は一人取り残された。




