第二十三話 虎落笛(四)
風の鳴る音に耳を傾けていてふと気づくと、膝の上の白梅がぼんやりとこちらを見上げていた。おかっぱに切り揃えた黒髪がつややかで、枕代わりに提供した腕をさらさらと心地よく撫でる。すべらかな頬が紅潮し、熟れた桃の実のようだ。わずかに顰めた眉の下、大きな美しい目に混沌と深遠と、そして今は透きとおった涙の膜が張っている。涙があふれ出たのを、ガーゼのハンカチで軽く押さえる。
「水分をとりましょうね」
籠を引き寄せ、中を探る。取り出した小さな瓶を見て、白梅が嬉しそうにした。ケイさんが「小梅ちゃんが喜ぶから」と切らさないように買い求めてくれた乳幼児用のジュースだ。
「桃と替えましょうか?」
「いいえ、そちらがいいです。林檎味」
蓋を取ってストローを差し、起き上がった白梅に渡した。
憑依体が幼いからだろうか。再生後、白梅は甘いものを好むようになった。ボディが再生を繰り返し六百年生き続ける異能者であろうと、主人格が三千年前から存在する実験記録装置であろうと、膝の上にちんまりとおさまり嬉しそうに林檎ジュースをちゅうちゅうと吸う姿は庇護欲を誘う幼児そのものだ。時折ちらりちらりとこちらを見遣り目を細めて微笑む様子も愛おしい。汗を拭いたり着替えをさせたりと世話を焼き、また綿毛布でくるみ、膝の上に抱きあげた。
「さっきより少し熱が下がりましたね」
白梅がぼんやりとうなずく。しばらく風ががたがたと鳴らす鎧戸へ目を遣っていたが、再び私に視線を戻した。
「おやーたしゃま。対の乙女をご存じですか」
「ええ。理沙嬢から『乙女はね、白梅荘の中で必ず対の乙女を見つけるんだよ』と教わりました」
「対の乙女は……何代前でしょうか、大巫女が考え出したものでございます」
「白梅が?」
「いいえ、白梅ではありません。大巫女、憑依体人格です」
もしかしたら実験記録装置人格と憑依体人格は混ざっているんじゃないかと思っていたのだが、違うらしい。少なくとも白梅の中では区別がついているのか。
「大巫女の人格は普通の人間なのです。再生という異能を持ち、再生のたびに違う人格が生まれるだけで」
大巫女である前に人間だから、ひとりに肩入れ以上の気持ちを抱くこともある。新しく生まれた人格の与り知らぬところで交わされた契約に従って、自分が自分でなくなる空白の時をしばしば持ち、長く生き続ける尊い人だから、と人々から距離を置かれる。そして身の内にある別の人格と意思の疎通ができるわけではない。
大巫女は寂しくて対の乙女を考えついたのだろうか。
乙女同士で格がどうの、と詮無い諍いをする者もあったらしいが、異能を持つせいで家族からも何となく浮いた存在であった者がほとんどだ。自分のための特別な存在、自分を特別視してくれる存在、心の隔てを取り払うことのできる存在に飢えている。対の乙女、という思いつきは瞬く間に白梅荘の中に広がり、定着したのだという。
「白梅は、大巫女がなぜそのように対を求めるのか、理解できませんでした」
腕の中から私を見上げる白梅は幼い。しかしその目に混沌と深遠、人でない何かが宿っている。
「……らんたろしゃまにお会いするまでは」
「なりゆきで懐かれちゃって当主になった、と嵐太郎さんはおっしゃってましたよ」
ああ、そうなのです、懐かしい、と独りごち、白梅はふわりと微笑んだ。
「白梅は、らんたろしゃまが大好きでした。新しい大巫女の人格が目覚めるまで表に出ているだけ、ただ身体を借りているだけなのに、とても不思議でした。――あの方を見ているととても苦しい。目を逸らすともっと苦しい」
白梅は眉を僅かに顰めた。幼子特有の美しく澄んだ色をした目が風にゆすぶられる鎧戸を見遣る。眼球の白い部分がいつか見た夕月のように青みを帯びている。
「鈴子として再生して、幼く頑是ない子どもとしてでなく隣に立つのにふさわしく――人としてふさわしくなりたくて、常になく急いで成長しました。大人の姿になり新しい大巫女の人格に代わるときが来たら、当時のしきたりに従って引き離されてしまう。そのことは分かっておりましたけれどあの短い日々、白梅はらんたろしゃまのおそばに侍ることができて楽しゅうございました」
おやさしくて、ときどきいじわるで。白梅の目に再び涙が漲る。細身で長身、少し垂れ気味な目が優しい美しい青年。日々人ならざる速さで成長する子どもを驚きながら、でも愛情深く見守っていたのだろう。嵐太郎の、小梅と戯れる様子を思い出した。
「初めてお目にかかったとき、あの方に鈴子と名乗ってしまいました。そういう習わしだったから」
再生後一年間は白梅が主人格となる。憑依体に危険が及ばないよう立ちまわると同時に、数十年ぶりに戻った幼子の姿を覚えている者がいなくても、周囲の人々の試すような質問に答えて以前と変わらない大巫女であることを示す。だから人格は白梅でも新しい大巫女の名を名乗る。新しい大巫女への遷移をスムーズにこなすために、慣例に従って白梅は自然にそうふるまった。
「でも、苦しかった。白梅は初めて知りました。代々の大巫女があれほどまでに執着した対というものがどんなものなのかを。だかららんたろしゃまが当主を務められたおよそ十年の間、鈴子のふりをしつづけました」
白梅の目から涙がこぼれた。
「らんたろしゃまに別の名前で呼ばれるのは、ほんとは苦しかった。――おやーたしゃま」
「なんでしょう」
「白梅は、――らんたろしゃまに恋をしていたのでしょうか」
白梅の濡れた目がひた、と私に向けられる。幼子の瞳の奥に青い炎が揺れた。
「そうです、白梅。それが恋です」
「白梅は、――人でないのに?」
「白梅が人でなくても。それが恋なのです」
これが、恋。幼子がふくふくとした手を胸にあて視線をさまよわせる
「らんたろしゃまに、――白梅、と呼んでいただけました」
「そう。それはよかった」
「あい」
膝の上の白梅が、両腕をこちらへ伸ばす。リクエストに応えて小さく熱い身体を抱きしめた。
「――らんたろしゃまは、いい人生だった、とおっしゃいました」
「そう。よかった。よかったですね、白梅」
「あい」
腕の中で小さく、熱い身体が小刻みに震える。白梅のすすり泣く声が震える。




