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白梅荘顛末記  作者: まふおかもづる
第五章  氷蜜と乙女

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第十九話  冬ざれ(五)


 祟り神文書の解読が終わった。

 ケイさんは私の左腕――脱臼しかかっていた――を整復した後、ベッドに倒れこんだ。ゆっくりと獣化が解ける。うつ伏せになっている大きい人の消えてゆく鬣(たてがみ)を惜しいような気持ちで撫で、タオルで露わになった広い背中を拭いた。縦にふた筋、長い縫合痕がある。私をかばい、大山猫の爪で裂かれた痕だ。指で、唇でなぞる。意外につややかな肌に走る縫合痕が盛り上がり、攣(つ)れて痛々しい。


「詩織。そんなことしてると襲うぞ」

「そんな元気、ないくせに」


 ぐうう、と悔しげな唸りが顔を伏せた枕から漏れる。タオルで汗に濡れた首筋を拭い、眉間に皺を寄せて悔しそうにしているケイさんの顔を眺めていると、ふふふ、と口もとが緩むのを抑えられない。指先で軽くその眉間の皺を撫で、筋肉に鎧(よろ)われた太い腕を撫でる。


「お疲れ様です。よく成し遂げてくださいました」

「ご褒美」

「え?」

「ご褒美、ほしい」

「いいですよ。何をあげましょう」


 まあ、きっとあれだ。うなじだ。投げやりな気持ちになっているわけではないが、まあ、いいんじゃなかろうか。慣れてきた。うなじ、好きにするといい。


「考えておく……」


 大きい人の身体から力が抜けた。布団をかけ時計を見る。意外に解読に時間がかからなかったようだ。まだ日付が変わってしばらくだった。



 そっとケイさんの居室を抜け出し、隣の部屋に入る。寝室のドアを開けた。青く輝く細かい粒子が暗がりを舞っているように見えた。もっとよく見ようと目を凝らすと、初めからなかったように消えてしまった。疲れているのだろうか。

 白梅は嵐太郎の隣に潜りこんで眠っている。掛け布団をなおしていると、嵐太郎がうっすらと目を開けた。身体は細いが、大きい人だと思っていた。こんなに痩せて薄くなって、縮んでしまうなんて。嵐太郎の瞳が白く濁り、焦点が合わないのか目つきがうつろだ。


「――詩織ちゃん、泣いてるの?」

「泣いてません」

「僕の弟子は優秀なんだけどなあ。どうも恋愛に疎いようだ。すまないね」

「泣かされてません」


 嵐太郎が布団から手を伸ばす。声のありかを探るような動きだ。もしかしてもう目が見えないのだろうか。かさかさと乾き痩せた手を握った。冷たい。何と声をかけてよいものか。言葉が出てこなくて、嵐太郎の手に頬を寄せた。


「――やっぱり、泣いてる」

「嵐太郎さん、ひどいです。時間がないってこういう意味だったんですか」

「――ごめんね」


 こんなに老化してしまうなんて。垂れ気味の甘ったるい目と皮肉な笑みを浮かべる唇が皺に埋もれている。


「詩織ちゃん、――大吾くんが詩織ちゃんを使って義務を果たそうとしているのは分かってた。でも――ほんとは」

「いいんです。そんな義務なんて、もうどうでも」

「ほんとに、そうだね。――大吾くん、詩織ちゃんのこと、とっても大事にしてたんだよ。なんか僕って警戒されてたみたいでさ、写真しか見せてもらえなかった。写真の赤ちゃん、レースのベビードレスが全然似合わなくってさ、仏頂面で、大吾くんそっくりだった。そっくりだね、っていったらさ、大吾くん喜んでねえ。孫はわたしに似て頭がいいんです、なんて胸を張ってた。まだ赤ちゃんだったのにねえ」

「嵐太郎さん、もうお休みになってください」

「――もう少しだけ」

「祖父のことは……正直なところ、よく分からないんです。私の記憶していた祖父の姿と、封印の解けた記憶の中の祖父があまりに違っていて、まるで別の人みたいで」

「長年、わだかまりを胸に抱えていると、憎しみを捨てることに罪悪感を覚えるものだよ。そのために取り返しのつかないことをしてしまうこともある」


 嵐太郎が苦しげに息を継ぐ。


「あんなに強く求めて、ちゃんと結婚もできたのに、大吾くんは怖かったんだよ。自分が別の人と奥さんを重ねちゃっているのが。それで嫌われるんじゃないかって、怖かったんだ。だからせっかく結婚できたのに、奥さんと別々に暮らしてたまにしか会わなかった」

「――祖父は馬鹿です」

「ほんとだね。誰か、ばしっといってあげればよかったのにね。奥さんの千草さんのことも、きみのことも、大吾くんなりに愛してたんだ。きっと大吾くん、後悔してる。そしてきみの幸せを祈ってる。……僕だって、そうだ。詩織ちゃん。――大吾くんのこと、赦(ゆる)してあげて」


 祖父のことはともかく。

 嵐太郎、あなたのことを誰も責めたりしない。大巫女から白梅を剥(は)がして滅してしまうという計画を最初に立てたのはあなただけれど、いつもいつもあなたは再生に難儀する白梅を救ってきた。それは恋しい人の面影を見たいから、ただそれだけの理由だったかもしれないけれど、嵐太郎が、そして祖父が白梅を破壊しなかったから今、こうして私がここにいる。ここにいられる。

 そんなことは口にできないけれど。代わりに頬に嵐太郎の掌をあてたまま微笑んだ。頬の動きを察したか、あらぬ方に目をやったまま、嵐太郎も微笑んだ。


「――預けた記録は?」

「解読を先ほど終えました」

「そう。僕がいなくなるのが早いと思っていたけれど。さすがだ。――それで?」

「ダミーが仕掛けてありました」

「そうか……。注釈作るの、結構苦労したんだけどな。無駄だったね」

「そんなことはありません。あの注釈なしにダミーを見破ることはできませんでした」

「弟子も優秀だけど、養女も優秀だなあ。鼻が高いよ」

「嵐太郎さん」

「なんだい?」

「――ありがとう、パパ」


 こんな呼び方、かなり恥ずかしいんだけど、でも思い切って口に出してみてよかった。嵐太郎は顔をくしゃくしゃにして笑った。


「――想像してたより、ずっといい。こちらこそありがとう、詩織ちゃん。――あ」

「なんでしょう」

「あの記録を預けた夜に、白梅荘当主の継承儀式みたいなのがあるっていったでしょ」

「ええ。精神干渉で旧当主をねじ伏せるとかいう――」

「あれね、嘘」

「――はい? 白梅荘の当主は、乙女という力ある雌獅子を従えるハーレムの頂点に立つ雄獅子だ、とかなんとか」

「それも、嘘」


 なんで?


「なんか、かっこいいじゃない? ――だから、次の当主に引き継ぐとき、真に受けて精神干渉バトルしちゃ駄目だよ。ハイブリッドチャイルドのきみには誰もかないやしないからね」


 呼吸するのもつらそうなのに嵐太郎は嬉しげに私の頬を撫でた。その手つきは家族を気遣う仕草そのもので、この人は私の養父なのだと改めて感じた。


 一度、二度と雨が降り、その雨ごとに冷えてきた。そして晴れて空の高い日が続き、あっという間に秋が過ぎ去っていく。

 張りつめるように冷えこんだ初冬の朝、嵐太郎は静かに息を引き取った。



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