第十八話 冬ざれ(四)
やっと「島」の記録文書の解読が終わった。アンカーの接続を断とうとしていると、ケイさんに止められた。
「待って」
「――今日はこのくらいに」
「いや、まだある」
「でも、身体に負担が」
「平気だ。まだやれる」
ケイさんは今日までこの文書の記憶を放置していた私を責めない。大きい人が優しいから。それもある。それよりも今それを責めても仕方ないから。こちらの方が大きい。私に後悔に苛まれている暇などない。大きい人の記録解読作業をアシストして無事に成し遂げなければ。
「詩織、始めよう」
「はい」
祟り神文書と嵐太郎の注釈を並べる。
「師匠は祟り神文書を読めるのか……」
「ええ、少しだけ読める、そういっていました」
祟り神文書の解読が始まった。さっきより時間がかかる。私たちは身体を寄せ合い、お互いの指を絡めた。ケイさんの爪が手の甲に食いこむ。私を見つめるケイさんの目が赤く血走っている。きっと私もそうだ。左腕がじくじくと疼く。ぎしぎしと契約錠が軋む。
白い岩のような壁面からぽろりぽろり、きらりきらりと記憶結晶が剥がれ落ちる。一度埋め直した美奈子さんの記憶結晶もゆらりゆらりとセノーテの底へ沈んでいった。
「――詩織、集中してくれ。きみの助けがなければ解読できない」
「すみません」
呼吸を整え直す。バッファに積み上げられた新しい記録は順次ラベリングされ、記憶野に格納されている。大丈夫だ。作業速度は上がっているが祟り神文書と嵐太郎の解釈文書を広げる閲覧スレッドも今のところ問題ない。ケイさんの心の中で分裂し、それぞれの持ち場で体調をモニタリングし、刺激を送って作業速度を上げる探索子も問題なく動いている。
左腕がじくじくと疼く。ぎしぎしと契約錠が軋む。
会社勤めをしていた頃はナチュラルボーンお局なんて呼ばれていたじゃないか。野生のコーディネータースキルを発揮してたじゃないか。プロジェクトの同時進行なんて日常茶飯事だった。すべてのタスクを同時進行するにはコツがある。プライオリティの整理だ。すべてのタスクを最優先にはできない。切り捨てることはかなわずとも一部のタスクの優先順位を下げることで同時進行の速度と均衡を保つことができる、そんな場合もある。
どれを下げるか。
ひとつは、私の身体の変調だ。異能を引き出されて以降、強制拡張された脳の記憶野を使うといっても比較的小さいサイズの記憶を出し入れする程度だった。それがいきなりマルチプロセッシングを実行している。負荷がかからないわけがない。でもそんなこと、気にしている場合じゃない。
もうひとつ、ケイさんの体調だ。当然私よりプライオリティは高い。それでも大きい人の体力の続く限り、作業をやめない。慎重に体調をモニタリングするが――よほどのことがない限り――処理速度を上げ続けるつもりだ。
プライオリティを設けることは、悪い事態を想定することでもある。すべてを成功させることが不可能となる事態だって起こり得る。――いや、私は大丈夫。まだやれる。
「詩織。もしかして腕が痛むのか」
「平気です」
「すまない。自分のことばかりできみの身体にかかる負荷を度外視していた」
それでかまわない。
「集中してください」
「しかし――」
「ケイさん」
――俺はきみに何をされてもかまわないんだ。
「東京へ向かう車の中でいってくれたあのことばは嘘なの?」
「そんなわけがない」
「じゃあ」
左手をぐいっとケイさんの後頭部へ回す。肌が針毛に切り裂かれる。構わず力任せに引き寄せた。目を瞠る大きい人に口づける。
「証をちょうだい」
「俺の女王、――もちろんだ。きみのほしいものをなんでも」
ほんとうは嫌だ。こんなかたちであのことばを盾に取るなんて。でも私は知りたい。白梅荘の記録は白梅の主記憶システムからあふれ出て不完全だ。白梅を救う方法があるのならば、知りたい。
ほんとうは、取り戻したい。鍋をつついて、盆踊りに行って、野菜を育てて――みんな揃って暮らしたあの日々を取り戻したい。理沙嬢、真知子さん、お久さん、みちるさん、小梅、嵐太郎、そしてあなた。やっと手に入れた私の家族。
頭の中にあるこの古い記録を解読したところであの日々を取り戻すことなどできない。分かってる。ああすればよかった、こうすればこんなことには、とただただ後悔することになるのかもしれない。分かってる。こんなことをしたって、また失敗するだけかもしれない。そんな可能性だってある。分かってる。
でも私は知りたい。何も知らないまま闇雲に失敗するのはもう嫌だ。針毛に切り裂かれるそばから傷が塞がる腕。痛みは残るのに身体は癒えてゆく。こんな能力を得た私がなすべきことは何なのか、せめて糸口だけでも――目の前の大切な人の身体を損ねてでも――掴みたい。
「俺はきみに何をされてもかまわない。ほんとうだ」
ヤマアラシの人は私の目もとに口づけた。そして針毛で切り裂かれ瞬時に癒され、めまぐるしくそれらを繰り返す私の左手をとり傷があった場所に口づけた。
「詩織。迷うな」
長く伸びた半白の鬣の隙間からのぞく美しい目が私を射抜く。
「作業速度を限界まで上げます」
「分かった」
私たちは再び固く抱き合った。
祟り神文書の翻訳。嵐太郎の注釈文書との照合。作業が終了した文書、新しく作成した文書のラベリング、保存。ケイさんの心音。体温。呼吸。目の色。
ぐ、ぐぐぐぐ。
から、からんからん。
見つめ合うお互いの背後で針毛が、そして探索子のついた触手が、逆立つ。
――もっと速く。もっと。
左腕がじくじくと疼く。ぎしぎしと契約錠が軋む。




