第十六話 冬ざれ(二)
ケイさんの感覚は視覚より聴覚のほうが鋭い。いや、鋭いというのとは少し違う。ケイさんの感じる世界は音が鮮やかだ。聴覚の受容器は耳だけでない。ケイさんは指先で私の頸動脈から心臓の鼓動を聞く。肌で、針毛で空気の震えを聞く。ただの振動なのに。まるで密やかに奏でられるたいせつな音楽のようだ。
大きい人は指で私の唇に触れる。私の声を、吐息をすべて聞きとるために。大きい人は私の指を、そのあたたかな唇にあてる。ことばにできない思いがあるときに。その世界は寄せては返す波に満たされた美しい場所だ。微かに梅の木をゆする風の音も、多々良が浜の潮騒も、すべてが波だ。私の知らない世界がここにある。
このままひとつになってしまいたい。大きい人の世界の一部になってしまいたい。私も波を発するもののひとつなのに、そこに入っていけない、そんな気がした。
から、からんからん。
ふるり、とケイさんが身体を震わせた。波をかき分け知覚範囲を広げた。
子どものしゃくりあげる声が聞こえてきた。白梅だ。はっと身体を離そうとする私をケイさんがとどめる。いったん他の波に隔てられ遠のいた音が再びクリアになってきた。
「――もう、僕は駄目だ」
「そんな――そんな」
重い嵐太郎のため息が微かに聞こえる。その苦しげな様子に胸が締めつけられる。
「もう一度、もう一度だけ」
「おりんちゃん――。いや、白梅」
苦しげなのに、力のこもった声だ。
「僕はあのとき、きみとひとつになったあの夜、死んでいたんだろう?」
「――」
「なぜそのままにしなかったんだい? 僕は乙女じゃないのに」
「――」
「今回はもう無理だよ、白梅。器が、身体がもうもたない」
白梅がしゃくりあげる。
「ほんとうにすまなかった。きみと対立していた――この長い年月は取り戻せないけれど」
嵐太郎は乙女が商品として金銭と交換されることに憤りを覚え、白梅荘をなくせばこんなことがなくなると考えたのだと以前聞いた。白梅荘をなくすためには実験記録装置である白梅を破壊すればいい。再生を繰り返す大巫女から白梅を取り除き、鈴子という愛する人を取り戻すことが嵐太郎の望みだ。仮に大巫女から白梅を引き剥がすことに成功したとしても鈴子という人は帰ってこない。ボディは同じでも再生のたびに違う人格が宿るからだ。そして鈴子の記憶は白梅の中にある。数十年に一度の再生の間際、滲むように過去の人格の記憶が、再生の予兆としてボディ人格に現れる。
百数十年前に愛した人の記憶が同じ姿かたちをした人の中にうっすらと蘇る。だから嵐太郎は再生の度に白梅荘に帰ってきた。
「僕は気づかなかった。おりんちゃん、いや、鈴子じゃなかった。ほんとうはきみだったんだね、白梅」
嵐太郎の息遣いが乱れた。
「らんたろしゃま、おやすみください」
「もう少しだけ――」
「らんたろしゃま」
姿はせいぜい四、五歳の幼児なのにその目に混沌と深遠が宿る。理詰めで考え、人の世に疎く、播種計画の遂行だけが関心事――だったはずなのに、三千年稼働し続ける実験記録装置であるはずの白梅は乙女が大事でどこか抜けていて、子どもっぽい。そして人間くさい。
「らんたろしゃま。成長し身体が大人になる前に憑依体の人格に身体を譲り渡す、そうするはずだったのです。――でも白梅は、らんたろしゃまを鈴子に渡したくありませんでした。だから、――」
再生後、白梅が主人格になり憑依体の新しい人格が眠った状態になるのは、大巫女が再生前の記憶を引き継いだ同一人物であることを内外に示すために必要だったはずだ。憑依体がある程度育てば休眠していた新しい人格を前面に出し、白梅は必要なときを除き表に出ない、そう聞いている。それなのに嵐太郎が当主であった十年間、白梅は憑依体の人格を抑えこんで表に出続けたというのか。
白梅は涙声になった。
「あなたが当主を務めた十年間、白梅は幸せでございました」
「――あまり会えなかったけどね」
「ええ。でも、白梅は、らんたろしゃまの腕の中で再生できて幸せでございました」
「――僕が臆病だったから。再生のときにしか会いに行けなかった。すまない」
嵐太郎が苦しげに息を継いだ。
「あの夜――、毒殺された夜、どう……やって僕を助けた?」
「白梅の一部を、お分けしました」
白梅が泣き崩れた。
なんとしても助けたかったのだろう。けれど、そばにいればまた嵐太郎は命を狙われたに違いない。
「息を吹き返したあなたとああして一夜を過ごせば禁忌をおかしたといわれるのは分かっておりました。あなたが責めを負わされ追い出されることも。――それでも生きていさえいればまたお会いできると」
「――」
「ですから、もう一度」
「駄目だよ、白梅。駄目だ」
白梅のしゃくりあげる声が聞こえる。私を抱きしめるケイさんの腕が震えている。
「これ以上はもう、駄目だ。きみから分けてもらうわけにいかない。僕は十分に生きた。きみと過ごした時間は短かったけれど。白梅――、僕、いろんなところへ行ったよ。いろんな美しいまちやむらがあるんだ。月を見上げ、花を眺め、雨宿りをして――いつも思ったものだよ。きみに見せたい、って。きみと一緒に――でもいいんだ。いい人生だったよ、白梅――」
離れようとするケイさんにぎゅ、とすがりついた。
「ケイさん。お預かりしているものがあります。嵐太郎さんから」
プライベートの記憶野から圧縮せずに転写した「島」の記録と祟り神文書を取り出し、並べた。
「これは……」
「ええ、あなたのふるさとの記録です。嵐太郎さんが川向こうの連中の目を盗んで読み、読み解けない部分も含めそのまま記憶したものだそうです」
「師匠が……」
私を見下ろすケイさんからぽたぽたと涙の雨が降ってくる。彼の涙が私の流すそれと混じり合う。大きい人の頬を伝う涙の熱さを、伝う道筋を、感覚を共有している私は知る。ぽたぽたと滴る間に熱を失い、私の頬を冷たく伝うその感触を、滴るときに頬を打つリズムを、共有した感覚を通じ大きい人は知る。
刻一刻、今このときも新しい記憶結晶が生まれている。私の姿、そして私を見つめる大きい人の感情は記憶結晶に刻まれ、心の奥、美しいセノーテに埋めこまれ続けている。感情も記憶も、感覚すら共有しているのに私たちは溶けあえない。こうして固く抱き合っていても私たちはひとつになれない。
ひとつでないから悲しいのか、ひとつになりさえすれば悲しくないのか、それすら私には分からない。駄々をこねる子どものように私は涙を流し続けた。




