第十五話 冬ざれ(一)
嵐太郎の症状はいったん落ち着いたかに見えた。大儀そうではあったが一人で食堂まで歩けるほどに快復した。しかし日に日に痩せていき、また動けなくなった。しみだけでなく皺も増え、髪が抜けて減り、瞳に濁りが生じている。一気に老化が進んでいるのだ。嵐太郎に死期が迫っている。誰も口にしないがそれは確かだ。
真知子さんが一度、
「もしわたくしがいることで負担が増えるようでしたら娘の家に身を寄せますけれど」
と漏らした。やめてもらった。本当は真知子さんも残り少ない日々を家族と過ごしたいのかもしれない。それでもできればそばにいてほしい。
「娘や孫たちとは頻繁に会っていますし、すぐ近くにいるんですからいっしょに暮らす必要はありませんのよ。それに」
真知子さんが微笑んで私の手をとり、掌に頬を寄せた。ふわふわとウェーブのかかった銀髪が手をくすぐる。
「詩織ちゃんが頼りにしてくださって、うれしい」
掌に触れる頬が熱い。
真知子さんは、ケイさんと私が嵐太郎の看護に集中できるよう、家事の手伝いを手配してくれた。広い庭や外構え、居住エリア、厨房などの掃除だの洗濯だのから解放されて、家事を一切しなくて済むわけではないがずいぶん楽になった。
多忙であるにも関わらずこうして白梅荘にも気配りしてくれるけれど、真知子さんの時間もまた残り少ない。
娘の佐和さんやその夫である勢田氏とも話した。
春、理沙嬢の抜き針の儀のときのふたりはどこか張りつめて、夫婦仲はいいのにそれぞれにそっぽを向いてぎくしゃくしているように見えなくもなかった。佐和さんは娘や義実家との関係、ストレスを処理できず溜めこんで飽和状態となり、勢田さんは姑で上司でもある真知子さんとの関係がスムーズでない頃だったのか、少し卑屈な態度を見せたりもしていたものだ。
今はあのころのふたりと違っているように見える。固く絆を結び、他者や社会と向き合うために手を携える。夫婦なんだなあ。
ふたりとも当然のことながら真知子さんの余命のことは承知していて、それでも
「今は小康状態を保っておりますし、本人の望むようにさせたいのです」
「体調によっては――入院が必要になるかもしれません。でもそれまでは今までどおりに」
と見守るつもりであるとのことだった。
「お願いがあるのですが」
持ちかけると、勢田氏の表情が強張った。鶏がらのように痩せているのに元気が余っているあの老母の件でクレームか何か、と警戒しているようだ。そうじゃないんだけどな。違うけれど、そう思われているのを逆手にとるという手もあるのか。ふむ、と考えこんでしまいそうになるが、勢田氏の表情が警戒から怪訝なものへと変化しているのに気づいた。
「ああ、すみません。少し考えごとを」
不思議そうな顔をしている二人の前に書類を差し出した。こういうとき、どうするんだったっけ。ひとまず背筋を伸ばした。仕事から離れてずいぶん経つから緊張する。しかも相手は大企業の新オーナー夫婦だ。
「実はお願いというのは」
私はふたりに説明を始めた。
気の進まないことであったが、生け垣や門、庭を一部作りかえることになった。みちるさんが大事にしていた生け垣や庭の一部を替えてしまう工事だったが、白梅は
「よろしいと思います。ひーしゃんの……要塞が解けてしまっていますし、安全を考えれば妥当な判断でしゅ」
とあっさり賛成した。丈の低い生垣だった今までと違い、背の高いケイさんでも視界が阻まれるような塀を作り、門も重く厚いものと換えた。今まではオープンなのが当たり前だっただけに、暗く閉ざされた感じがする。
「あまり騒がしくしてもいけませんけど」
食事を嵐太郎の居室、寝室に続く居間でとるようにしてはどうかと真知子さんから提案された。
急速に老化する嵐太郎は数日前から寝たきりである。白梅荘は広い。いったん人が食堂や厨房に集まってしまえば、居住エリアは人の気配の感じられない静かでさびしい場所になってしまう。嵐太郎の弱りぶりが急で誰かがそばについていなければ、というのもあるが、せめて気配だけでも感じられるようにすればお互い安心なのではないかと真知子さんがいう。その提案を受け容れた嵐太郎本人よりも白梅が嬉しそうにしている。
白梅は片時も嵐太郎から離れたくないようだ。執着を隠しもしない。ともすると睡眠時間も削ろうとする。これはさすがに「ちゃんと寝ないと駄目でしょ」と嵐太郎から止められていた。
「らんたろしゃまのおそばにいたいのです」
夕食の後片付けをしていると、薄く開いた寝室のドアから白梅の声が漏れてきた。食器を載せたワゴンをそのままに嵐太郎の居室を出る。廊下にケイさんが立っていた。闇に沈む窓の外に目をやっていた大きい人が振り返った。
「詩織、おいで」
寝室に誘われた。ケイさんが服を脱ぐ。
ぐ、ぐぐぐぐ。
から、からんからん。
頭を軽く振ると一気に獣化が進んだ。より厚く、存在感が濃くなったように見える。頭部から腰にかけて背面が一気に黒白まだらの針毛に、他の部分は黒い獣毛に覆われた。
太くあたたかい腕に閉じこめられる。目のすぐ前にふわふわの獣毛に覆われた胸板がある。いつもの日向のにおいが弱まり甘く粉っぽい麝香に似た香りが混じる。あたたかい指が後頭部をなぞる。低く丸く、穏やかな声が降ってきた。
「きみの、花を」
ケイさんのあたたかい手が後頭部から首をなぞる。首から背中へと素直には移らず、指先が首を数回行き来した。ほんとに好きなんだなあ。うなじが。
「花を、お願いだ」
私の苦笑する気配を拾ったか、ケイさんは少し身体を離して両手を私の耳の下に軽く当てた。あたたかい。
ヤマアラシの人は美しい。
首もとに三日月形のふさふさと白い毛の帯がある。前頭部から白黒まだらの長い鬣が後ろに向けて弧を描き伸びる。私を射抜くその視線の強さにたじろぎ、あたたかな胸もとへ逃げようとしたが阻まれた。耳の下に当てられたケイさんの手は優しいのに抗うことを赦さない。
ぐ、ぐぐぐぐ。
目で促されるまま、ゆっくりと後頭部の肉の花を開き、探索子を放射状に展開する。ケイさんの片手が耳から外れ腰にあてられ引き寄せられた。
「さあ、アンカーをつなげて」
隙間なく固く抱き合い、私たちは感覚を共有した。




