第十四話 末枯(七)
* * *
――できるだけ、痛まないようにします
――いいの。痛くていいの。
散る。鮮やかな朱。
――よく見ていなさい。
――詩織、成功させるには条件があるのです。場所とタイミングを間違ってはいけませんよ。絶対に。
やめて、やめてやめて。
――さあ、解放して。
――ありがとう、わたしの……
ぶちり、とちぎれる音。きらきらと透明に輝き湾曲するそれが散る朱とともにぬったりと現れる。ああ、酔う。血のにおいが濃い。
* * *
夜。目が覚めた。また祖父が抜き針の儀式に失敗する記憶を夢に見た。疲れが澱のように身体の中にざらりと溜まっている。ぎしぎしと身体が軋みいうことを聞かない。しばらくそのまま身体が落ち着くのを待った。
日向のにおいに包まれている。規則正しくゆったりとした大きい人の寝息が額をくすぐる。
嵐太郎から託された祟り神文書とそれに関する仮説――まだケイさんと共有していない。私の手もとにこの文書の記憶を置いていても何の役にも立たない。早くケイさんに渡したほうがいいような気がする。何を差し置いてもこのことを優先すべきだったのではないか。また何かを間違えてしまっているのではないか、と不安が募る。
でも昼間、勢田の老女からアポなしアタックを仕掛けられ、それを契機に真知子さんの余命について知ることになり、どたばたしたから、――いや、そうじゃない。私は知らされて当然ショックを受けたけれど、ケイさんが教えてくれなかったことよりも真知子さんに死が迫っていることのほうがこたえた。真知子さんの余命が残り少ないことに気づいていたけど私にいえなかった、そのことをケイさんは後悔しているようだ。こうしていつもと同じように共寝しているけれど、心理的な距離は常になく開いてる気がする。
だから気まずそうに目を逸らす大きい人に記憶を共有してほしいといえなかった。そんなことを言い訳にしてはいけないのだけれど。
静かだ。しかし廊下に微かな気配があるのを感じる。隣で眠る大きな人の髪を撫で、寝台を降りた。そっとドアを開け、ケイさんの居室から廊下へ出る。嵐太郎の居室のドアの前に小さな人影がうずくまっていた。歩み寄り、肩に手をかける。
「……おやーたしゃま」
ひんやりと沈殿する闇に溶けそうな微かな声。振り返り私を見上げるその目に混沌と深遠が宿る。瞳に青い炎が揺らめいたように見えた。
――再生する直前、最期の時にこんな青い光に包まれるのだと。
――この青い光を思いだしたらいよいよ再生が近くなるのだ、と。
――もう三十年も前からこの青い光が蘇り、苛み続けるのだ、と。
――それでも美しい炎だと心惹かれてしまう、と……
確かめようとじっと見つめたのだが、小さい人がゆっくりと瞬きをして再びその美しい目を開けたとき、炎はなかった。
「白梅。こんな時刻にどうしました」
細い肩を撫でながら小声で問う。
白梅はふるふると首を振る。うずくまったまま私から目を逸らし、いったん開いた眉根を再び寄せて嵐太郎の居室のドアを見つめた。睨んでいるのとは違う。唇を微かにわななかせている。少し虚ろに視線を下げた、その大きな目の表面を涙が薄く覆う。泣きそうな顔になっている白梅の視線の先は嵐太郎の寝室だ。
「――どうした」
そっとドアを開け、ケイさんも出てきた。うずくまる白梅を不思議そうに見やり、私に視線を移した。
「どうしたんだろう」
「さあ――」
ケイさんはゆっくりと身をかがめ、白梅の小さな背中を撫でた。だいじょうぶ、だいじょうぶ。
「師匠と一緒に寝てたんじゃないのか」
「――お部屋に入れてくれなくて」
消え入るような声で白梅が答える。まなじりから涙がこぼれた。
はっ、として白梅が顔を上げ濡れた目を瞠った。目の前のドアの向こう、部屋の中でゆっくりと動く気配がある。そっとドアが開いた。冷え冷えとした廊下に居室内部の温気が漏れる。普段どおりのはずなのに微かに、生乾きの草のようなにおいが混じる。
「――小梅ちゃん、お部屋に戻らなきゃ駄目じゃないか」
少しだけ嵐太郎が顔を出した。白梅が身をよじり、ケイさんの腕の中からぬけだして嵐太郎の腰にしがみつく。
「師匠――」
「ああ、これ? ――だいじょうぶ、病気じゃないから」
肌から血の気が失せ、手や顔に点々としみが浮き出し、少し色素の薄い長めのやわらかそうな髪がばさばさと乱れ、白髪が目立つ。おかしい。夕食のときにはこうではなかったのに、数時間でなぜここまで――。
「師匠……!」
「体調を崩してしまった。すまないね、五木くん。話は朝になってからでいいかな」
「師匠!」
うろたえるケイさんをそのままにして、嵐太郎は腰にしがみつく白梅の肩に手をかけた。
「小梅ちゃん、独りで寝られないの?」
「――」
「詩織ちゃんと一緒に寝ればいいよ」
「――」
白梅はひし、と嵐太郎にしがみつき、ひたすら首を横に振る。嵐太郎はため息をついた。
「小梅ちゃん――、いや、白梅。分かっているだろう? もうこれ以上は」
「いや、いやです」
顔をあげた白梅が涙をぽろぽろとこぼす。細く小さな指で嵐太郎の寝巻を力いっぱい掴んでいる。
「離れません」
嵐太郎はため息をつくと白梅の背中をぽんぽん、と叩いた。
「分かった――。一緒に寝るだけ。いいね?」
「――」
「いいね?」
「――分かりました」
腰にしがみつく白梅の頭を撫でながら、嵐太郎がこちらを見遣った。
「夜中に悪かったね」
「――嵐太郎さん」
「おやすみ」
目の前でドアが閉まった。




