第十三話 末枯(六)
「千草ちゃんがいっていましたわ。詩織ちゃんは何も知らないまま、ここにやってくると。わたくしへの最後のお願いは、詩織ちゃんの記憶ができるだけ戻らないよう、封印が解けないよう気をつけること。そして記憶の封印の状態いかんに関わらず、あなたの意志を優先して支えること。――たとえそれが白梅荘への復讐だとしても」
真知子さんが私の手をぎゅうっと握る。小さな手が熱い。目がきらきらと輝いて、美しい。
「詩織ちゃん、あなたが相続後にここへやってきて、自分の意志と関係なく記憶に導かれて白梅を破壊する、そう千草ちゃんはいっていましたわ。いったん封印が解けてしまえばそれを阻むことはだれにもできないからせめて、自分が詩織ちゃんとできるだけ会わずにいることで記憶の封印が解けないようにしたいって。だからあなたに会おうとしなかった千草ちゃんを赦してあげて」
ただはい、とうなずくことしかできなかった。私と会わずにいたことで、おば様が安らかな晩年を過ごすことができたのだったらそれでいい。赦す、赦さない、そういう問題ではない。
「理沙の乙女契約の報酬の件ですけど――そういうわけでわたくしどもはこれ以上何か白梅荘からいただくわけにいかないんですのよ。そもそも過分な報酬を大昔にいただいておりますから」
困ったものですわね、あの人も、と真知子さんは苦笑した。仮に不備があって私が理沙嬢への契約報酬を金銭で支払うとしても、勢田の老女の懐がそれで潤うわけではない。でも自分の孫娘が軽んじられているという思いが拭えなかったのであろうことは理解できる。直系で二人の乙女を輩出して地元の大企業のオーナーにふさわしい血筋である、というだけではメリットが足りなかったのだろう。
「結婚前はともかく、勢田の婿殿はわたくしがハイブリッドコードキャリアでないことを知っていますの。つまりわたくしの乙女契約が偽物であることも。ですからこれ以上妙ないいがかりをつけたりしないよう母親をきちんと抑えるはずですわ」
部屋で休むという真知子さんを見送り、厨房でケイさんと向かい合った。
「すまなかった。真知子さんの余命のこと、どうしてもいえなくて」
「かまいません。白梅荘の運営に関わる事態だとケイさんが判断されたのが今日だった、そういうことですよね」
言外の刺を感じ取ったか、私の肩に伸びたケイさんの手が途中で止まった。
「真知子さん、あまりに食欲がないから、それなのにお酒だけはたくさん呑むから、心配になって」
「佐和さんと話したんですか」
「いいや、勢田さんと」
黙りこむ私を見ておろおろとうろたえるケイさんをなだめた。
「怒っていません。ほんとです」
ケイさんは気づいたけれど、私は真知子さんの体調の変化に気づかなかった。一緒に暮らしてご飯を食べて、いってらっしゃい、おかえりなさい、とごく身近に接していたのに気づかなかった。
――プライバシーやハイブリッドコードキャリアのタブーに関わるから、話せない。
――本人の許可がある場合や、白梅荘の運営に関わる非常事態だったら別だけど。
――ええ、必要に応じて本人に聞くようにするので結構です。
黄金週間の小旅行の帰り、ケイさんはこのことを既に察していた。知っていても話せないことがある、といっていた。
分かっている。今までそれを放置していたのは私だ。ケイさんのことばに含みがあることを分かっていながら、ちゃんと把握しなかった。
分かっている。自分の選んだ行動の結果を受け入れなければならない。傷ついた、なんて甘えた顔をしてはいけない。
事態はとうの昔にこの方向へ舵を切っていて、ケイさんの示唆を正しく受けとめていたら私はそれを知ることができた。結果は同じであっても、きっともっと早く心の準備をすることができた。どうして私は、取り返しのつかないこんなことを間違えてしまうのか。悔しい。
分かっている。悔しさももどかしさも胸の痛みもすべて他の誰からもたらされたものではない。私のものだ。でも、傷ついた。
――じーちゃん。
多々良が浜限定ヒーローでスーパーイケメン御曹司なんて呼ばれていた祖父。辣腕を揮い事業を成功させて剃刀などといわれて、でも愛人に産ませた息子とその家族を溺愛する大きくて優しい、しわしわの――低く、丸い穏やかな声をしていた祖父。私の大好きな山嵐の人と少しだけ似ていて、そしてまったく違う人。
――じーちゃん。
祖父が取り戻したかったもの、それは白梅の神性でも、白梅荘に対する人々の信頼でもなかった。
明子。私の知らない女性だ。封印の解けた記憶の中にもその姿はない。明子という人は、千草さん、おば様の母親にあたる人だ。
――じーちゃん、じーちゃんは馬鹿だ。
愛されていると思った、それがほんとうは違った、そんな私のことなんかどうでもいい。
抑えきれない心の闇が滾るままに白梅荘を破壊しつくそうとしていた、それを引っ繰り返すほど、計画を中止するほど愛おしい存在だったのなら、おば様が祖父にとってそういう女性だったのなら、なぜ正面からぶつかって愛することができなかったのか。
――じーちゃんの馬鹿。
愛していた人の面影だとかそんなの、きっかけに過ぎない。おば様にあんなつらくさびしい思いをさせるだなんて。祖父は馬鹿だ。
――この星でただひとり、知恵者にいちばん近い姿をしたあの子を使ってあの呪われた播種計画に止めを刺す――痛快だ。
そんなことしなくたって私たちハイブリッドコードキャリアは滅びる。乙女がいなくなり、相続する者がいなくなり、白梅も――どういうかたちになるかはともかく――いずれ稼働を停止する。その流れはどうあがいても止められない。知恵者の遺伝子は不完全なハイブリッドコードとして薄く広く人々に組みこまれる。だから遺伝形質としての異能が発現しないだけで、ハイブリッドコードキャリアは多く存在しているのだ。とうの昔に先住種族であるヒトと混ざり合っている。おそらく実験記録装置の後押しがなければ異能が発現する個体は今後現れない。
知恵者の遺伝子はこの星の生態系に選ばれなかった。強さや賢さで秀でた一個体のできることなどたかが知れている。数を殖やし、環境の変化に適応することでより強くなる。弱者や変異体も含め種全体で生き抜く。そうして命をつないできた先住種族がこの星の生態系に選ばれるのは当然だ。「播種計画」は終わっている。知恵者の望むかたちではなかったのだろうけれど。




