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白梅荘顛末記  作者: まふおかもづる
第五章  氷蜜と乙女

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第十二話  末枯(五)


「それでも詩織ちゃんの理沙に対する気持ちが、『大人にするために、ちゃんと幸せも苦労も人並みに、自分の足で人生を歩ませるために』というその気持ちが嬉しくて――ほんとうはいけないんですけど」

「真知子さんがいけないんじゃありません。乙女契約の解除は他の誰でもない、私が決断したのです」


 それよりも不思議なのは白梅だ。

 真知子さんの契約のこともちゃんと分かっていたのに、理沙嬢の乙女契約の解除に反対しなかった。


「みちるちゃんと白梅は、千草ちゃんから説明されて書類だけの契約であることを分かってくれていましたの。ただ――私が利益を享受するには相応の対価が必要だと」


 真知子さんが乙女として白梅荘に住まうことだけでない。勢田家との縁組も、白梅から指定された複数の選択肢のひとつだったのだという。ハイブリッドコードキャリアの生まれやすい組み合わせだったのだろう。


「佐和は何も知らず、おそらくは勢田の婿もうすうす察するところはあってもすべてを知っていたわけではないと思いますの」


 もしかしたら実母の部下であるその人といずれ自然に恋に落ち、夫婦となったかもしれない。夫婦仲がよいのだから、それは後づけだ。結果論に過ぎない。理沙嬢の母は自由に恋をする機会を奪われた。


「――でもね詩織ちゃん。だからこそ今のわたくしどもがあるんですわ。理沙が乙女契約を結んだ経緯も決して無理強いではありませんでしたの」

「それは――」


 以前、理沙嬢から聞いた。

 通学途中で不審者に追われ、義実家や周囲との人間関係に、育児に疲れた母親とすれ違い、学校にも居場所がなく、思春期に差し掛かった頃の理沙嬢にとって白梅荘へ祖母を訪ねるときだけ


――ここだったら深呼吸してもいい、そんな感じだったんだよね。


 安堵できたのだといってた。笑顔を見せれば「媚びている」と、表情をなくせば「お高くとまっている」となじられ、


――あの頃は人と目を合わせることが怖かった。


 理沙嬢はそういってた。だから乙女契約して逃げた、と。学校から、友人から、家族から逃げた、と。


「だからわたくし、みちるちゃんや白梅にも感謝していますのよ。孫を受け容れてくださったこと」


 真知子さんが私の手をとった。小さくて、熱い手だ。


「たとえ血を、理沙の人生を丸ごと縛る契約であっても後悔はなかった。会社がどんどん大きくなって、多くの社員の人生がかかってきて、オーナーであるわたくしたちにその責任があるのだから後悔はない、そう思っていましたの。――それなのに詩織ちゃんにああして契約を解いていただいて――だから」


 私を見上げる真知子さんの頬を涙が伝う。


「せめて千草ちゃんとのもうひとつの約束、詩織ちゃん、あなたを支えること、それだけはまっとうしたいんですの」

「じゅうぶんに、していただいています」


 ふわふわとウェーブのかかった銀髪が皺の寄った額や頬の周りで躍動し、発熱しているのか頬が薔薇色に紅潮し、瞳が涙でうるみ輝いている。握られているのと反対の手でぽんぽん、と彼女の両手を上から握りこむと、真知子さんは微笑んだ。美しい。ハイブリッドコードが欠けている、そういわれても、そのことを理解していてもやはりこの人の美しさは私の心を魅了し、奥底まで灼(や)く。


「千草ちゃんがよくいっていましたわ。詩織ちゃんのこと、血のつながりはないけど孫のような娘なんだって。会いたい、そういっていました」

「でも」


 結局おば様とは会えなかった。


「ケイちゃんは」


 真知子さんがケイさんを見上げた。


「詩織ちゃんを支えるつもりがありますの?」

「もちろん」


 穏やかに、しかしきっぱりと大きい人はいい切った。真知子さんは微笑んだ。


「じゃあ、ケイちゃんにも聞いていただこうかしら」


 真知子さんはぽつりぽつり、話し始めた。



     *     *     *



 年の瀬。晴れの日が続いている。真知子が当主の居室を訪れると、このところめっきり弱り寝たきりになってしまった千草が珍しく起きていた。冬枯れの庭、葉の落ちた白梅の老木を見下ろしている。部屋の空気はヒーターで温められているが、力ない日の光と、乾いて血の気の失せた千草の青白い頬が冷え冷えとして見える。日に日に衰えてゆく幼馴染の姿が痛々しい。


「わたし、死ぬのが怖いわ」


 千草の瞳にわずかな濁りが見える。


「当たり前ですわよ。わたくしだって怖いもの」

「違う」


 悔しげに千草は唇を噛んだ。


「そうじゃないの。これ以上引き延ばせないのが怖いの」


 大儀そうに重いため息をつき、千草は語った。亡夫の大吾が白梅荘の崩壊を望んでいることを。


「そんな、馬鹿な。あり得ませんわ」

「あの人はこの白梅の館をそれはそれは憎んでいたの」

「じゃあ、なぜあなたにここを遺(のこ)されたんですの? 大吾様はあんなに千草ちゃんのことを大事にしていらっしゃいましたのに」

「それは、そうね。あの人はわたしのためにこの館を維持することを望んだ」


 やはり、大吾様は千草ちゃんを大事にしていらした――。白梅様と乙女をめぐる古い習わしやら掟やらを覆し、大恋愛の果てに結ばれた、評判のおしどり夫婦であった。大吾は結婚前と変わらず年の離れた妻を大切にし、死の間際にも周囲に「頼む、妻を頼む」と繰り返し言い遺したと真知子は聞いている。


「それは――わたしが母と瓜二つだったから」


 千草は子どもの頃に母と死に別れ、大吾に引き取られた。白梅荘に来る前のことを、母のことも含め千草は覚えていない。しかし大吾に初めて会ったときのことはよく覚えている。


――明子……、やっと会えた、明子。


 自分とそっくり同じ顔をしていたという母の顔は思い出せない。でも名前は忘れられない。大吾が時々、自分のことを母の名前で呼ぶから。以来、死が二人を分かつまで三十年以上、何度も何度も、大吾は千草を違う名で呼んだ。


「あの人はわたしのことをそれはそれは大切にしてくれた。優しく導かれ、真綿でくるむように守られ大人になって、求められるままに結婚した。あの人はね、どうしても母を取り戻したかったそうなの。あの人にとってのわたしは再生産された明子に過ぎないということを、隠しもしなかった」


 千草はため息をついた。自分のため息の深さに身体がついて行かず折れてしまう、そんな風情だ。痛々しい。衰えた幼馴染の姿に真知子は涙ぐんだ。


「それでもよかった。――わたしは。たぶん、あの人も」


 窓の外に目を向けた千草がふんわりと微笑んだ。


「ああ、会いたいわ。東京でさびしく独り暮らしをさせてしまっているけれど、わたしとは血のつながりはないのだけれど、孫のような娘がいるの」

「詩織ちゃん、でしたわね」

「そう。――詩織ちゃん。一目見ればあなたもすぐあの子が詩織ちゃんだと分かるわ。顔がね、そっくりなのよ。あの人に、おやかたさまに」

「そんなにそっくり……?」

「ええ、それはもう目もとがそっくり。おやかたさまがお小さい頃はきっとこんなにかわいらしかったに違いない、少年の頃はこの子のようにすっきりと凛々しかったに違いない、会うたびにそう思ったものよ。わたしの知らないおやかたさまのお姿を見せてもらっているようでわたし、嬉しかった。ああ、あの子に、詩織ちゃんに会いたいわ」


 千草の目から涙がこぼれる。


「おやかたさまは――あの人は本当はこの白梅荘と乙女たち、そして白梅を一気に根絶やしにするつもりだったのよ」

「えっ……?」

「母にそっくりなわたしが見つかったから、復讐を先延ばしにしたのだとあの人はいっていたわ」


 ごく幼いころに白梅荘の当主の座についたからか、当主なのにいつまで経っても御曹司と呼ばれていた。真知子は子どもの頃を思い出す。学校で親しくなった幼い白梅の乙女である千草に紹介されて出会った長身の若者。整った面立ち、物腰柔らかく洗練された姿と仕草、娘たちの憧れの的だった御曹司にそんな恐ろしい一面があったとは。


「おやかたさまはおっしゃった。『千草、きみの死後、仕掛けが動くよう詩織に封印した』と。『きみの人生の安寧は守れるようにした』と。わたしにはどうしようもなくて、ただ引き延ばすしかなくて、ここまできてしまった。あの子には白梅荘と無関係に育って大人になって、恋をして、自分自身の人生を歩んでもらいたい。その人生の積み重ねがあの子を白梅荘から遠ざけてくれるといい。そう思っていた」


 病み衰えた千草の老いに濁る瞳に意志の光が宿った。


「詩織ちゃんはあの人にそっくりよ。でも当たり前ね。違う人なの。あの子を守らねば。――わたし、初めてあの人に、おやかたさまに逆らうの。お願い、真知子ちゃん。わたしの最後の願いをかなえて」


 ひんやりとして乾いた皺だらけの指が、病人とも思えない力で真知子の手を強く握った。



*     *     *



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