第十一話 末枯(四)
真知子さんは書類だけ、契約だけで実態のない乙女なのだという。
「あれはもう、三十年も前になりますわね」
まだ先々代様、大吾さまの喪が明けないころでしたわ、と真知子さんはあらぬ方を眺めた。
* * *
通夜というのはたいてい明るくさばさばとはいかないものだ。このときの川原家の通夜もそうだった。まだ若く、四十代半ばで亡くなった川原家の当主の死因は急性心不全である。志半ばで亡くなった人の通夜というのは悲嘆に満ちているものだが、このときの通夜はどこか白々としていた。故人の若さのせいではない。死因のせいでもない。当主の死をきっかけに愛人、隠し子、事業の共同経営者でもある妻・真知子の知らない債務まで湧いて出たからである。誰がいちばん大きいパイを持ちかえるか――。ぎゃあぎゃあ喚く者がいないだけだ。焼香や読経の済んだ通夜の席にお互いの探り合う視線が縦横に走る。そこは修羅場だった。
親戚や債権者、愛人、もうすぐ大人になりそうな大きい隠し子に囲まれ白い眼で睨まれ、真知子はうなだれた。夫と二人三脚でやっとここまで大きくした事業の利益だけで清算できるほど小さい債務ではない。
結婚後ずいぶん経って生まれた一人娘はまだ十歳。何としてもこの子だけでも守らなければ。真知子はぎゅ、と拳を握りしめた。
ふと、気づいた。遠くで生じたざわめきがだんだんに近づいてくる。
喪服を纏った美女ふたり。ひとりは和装、付き随うもうひとりは洋装。小柄な女ふたり、ことさら華やかでもないいで立ちでありながら辺りを払う威厳に満ちた美しさだ。ふたりの歩みに合わせ、真知子を圧しつぶすように取り巻いていた親戚、債務者、故人の愛人や隠し子の人垣が割れた。
「しらうめさま」
「あれが新しいしらうめさまだよ」
「しっ……。あれ呼ばわりだなんて罰当たりな」
「奥様がしらうめさまに直られたのか」
ひそひそと囁き合う声が聞こえる。
「真知子ちゃん……!」
黒い喪服に身を包んだ千草が駆け寄り、真知子の手をとった。
「遅くなってごめんなさい」
化粧気もろくにない白く血の気の失せた肌だが、結いあげただけの濡れ濡れとした黒髪、何より力強い眼差しが美しい。同伴の若い女とともに焼香を済ませた千草は通夜の席に残った面々を眺めたのち、真知子に力強くうなずいて見せた。
千草が伴っている美しい若い女は白梅荘の乙女で弁護士でもあるという。いかにも勝ち気な見た目と違わず有能でてきぱきとその場を捌いていく。中には小柄な女だと侮って食ってかかる者もいたが、そうしたものも含めて驚くほど短い時間で聞き取りをし振り分けていく。通夜ぶるまいが終わる頃にはあらかた問題が解決していた。
「こうしたことは問題点が明らかになれば自然と解決、着地点が見えるものです」
城下みちると名乗る若い弁護士は、てきぱきとメモをとりながら話をまとめた。うなずきながら報告を受けたのち千草は
「お葬式が終わったら――申し訳ないんだけど、できるだけ早く時間をとっていただきたいの」
真知子の手を握った。
通夜より弔問客の少ない葬儀が終わった。一日置いて真知子は娘の佐和を伴い、白梅荘を訪ねた。先代当主の喪に服していて沈んだ雰囲気ながら女性ばかりが暮らすその屋敷は穏やかでやわらかく、心を慰める雰囲気を湛えているように真知子には思えた。
「真知子ちゃん、こういっては何だけど、亡くなった方は生前からあまり事業に熱心ではなかったわね?」
確かに千草のいうとおりだ。マルカワ興産の社主は亡夫だが、ずいぶん前から真知子が切り盛りしてなんとかまわっていたといってよい。
「悪いようにはしません。私に任せていただきたいの」
千草は巨額の負債を抱えるマルカワ興産に金銭的に援助をする、と申し出た。
「千草ちゃん。とてもありがたいのだけれど、とてもお金を返せるとは思えませんわ」
「川原様。もちろん、ただお金をお渡しするのではありません。条件がございます」
静かに千草のそばに控えていた城下弁護士が口を開いた。
「真知子ちゃん、うちの、白梅の乙女になっていただきたいの。マルカワ興産への資金提供はその契約金としてお支払いするわ」
「でも……」
まだ真知子が娘だった頃、白梅の乙女といえば近隣の少女たちの憧れだった。白梅荘近在の娘たちの中でも美しく賢い者だけが選ばれ、乙女として暮らせる。乙女になれば畑や魚網の手入れなどの仕事をしなくて済むだけでない。教養を身につけ、白梅の当主が経営する東京の会社へ就職したり、金持ち土地持ちに縁づいたりするのだ。大人たちは嫌な顔をしたけれど、真知子も白梅の乙女に、さらにその先の未来に広がる都会の生活に憧れたひとりであった。
真知子が乙女にならなかったのは、早々に川原家に嫁いだからでもあるが、何より乙女の資質がなかったからである。幼い頃から親しかった千草を通じて調べてもらったから確かだ。あのときは「資質がない」と断られたのに――真知子は戸惑った。
「厳密にはあなたとの乙女契約ではありません。あなたの子孫と乙女契約を結ぶことになります」
「あの子に……佐和に乙女の資質があるんでしょうか」
「いいえ、ありません」
退屈したのだろうか。ソファでうつらうつらする幼い佐和を城下弁護士は見遣った。きっぱり言い放つ口調のわりに佐和を見つめる目もとが緩んでいる。子ども好きであるらしい。
「真知子ちゃん、あなたの力で、私の次に白梅荘の当主となる子どもを将来支えていただきたいの」
「でも……」
「あなたには見えているはずよ。利益が利益を産む仕組みを作る道筋が。――足りないのは資金なのではなくて?」
そのとおりだ。
社主であった夫を差し置いてばんばん仕事を進めるわけにいかず、さりとて業容を拡大するには資金も足りず、真知子は幾度となくチャンスを見送ってきた。「出しゃばるな」「小賢しい」などと悪態をつくばかりの夫は亡く、目の前にはほしくて仕方のなかったチャンスが差し出されている。
事業をたたんで清算しても負債が残る、そう思っていたのに。なんとか従業員がそのまま働ける環境が残せればいい、それすら贅沢な望みのように思えたのに。あのときできなかったあれが。これから大きく動くならばこれが。痛みを訴えるくらい胸が高鳴る。
――あなたには見えているはずよ。
言外に千草がにおわせた警告、微かなサインに真知子は気づかないふりをした。自分と娘の佐和には乙女の資質がない。乙女であることの意味、契約の内容をきっちり理解したにもかかわらず、思い描くことのできる未来を想像の暗幕の向こうに押しやった。
* * *
理沙嬢の乙女契約は、彼女が生まれる前にすでに結ばれていた。
「だから報酬は昔、過分にいただいていてほんとは……ああして理沙の乙女契約を解除していただくのはいけませんの。契約違反ですの」
うつむく真知子さんを前に、私は言葉を失った。真知子さんが乙女でないなんて、思いもしなかった。理沙嬢とそっくりの愛らしく賢く美しい人。個人の思惑が重なり絡み合うくせにそれとは無縁に動く企業体をコントロールし続け、長い間人の上に立ち続けた強靭な精神の持ち主。老いた小さい体から放たれる光は強烈で、理沙嬢の異能であった魅惑はこの人からそのまま受け継がれたものだと思いこんでいた。




