第十話 末枯(三)
てきぱきと台所仕事をこなすケイさんを作業台の隅に陣取って眺めながら冷酒をちびちびやっている。真知子さんは私の三倍の速度でぐいぐいやっつけている。男前な呑みっぷりを見せる美老女を横目にべったら漬けをぽりぽりかじっていると、塗りの椀が出てきた。とろろがかかった温豆腐だ。立ちのぼる湯気に出汁と、てっぺんにちょこんと載せられたわさびが香る。
「おいしいですわ」
真知子さんが豆腐を一口食べて満足げにため息をついた。同感だ。とろろはもったりとしたぬめりが出汁でのばされて素朴でのどかな舌触りだ。温められてふっくらとした豆腐とともにやわらかくのどを滑り落ちてゆく。抵抗のないなめらかな感覚をわさびの香気が後味でピリオドをつける。
「よかった」
真知子さんが長皿にちょっとずつ盛り付けられた煮豆やら青菜やらを口に運ぶ様子を見て大きい人が微笑んだ。
ぐい呑みを置いて真知子さんが居住まいを正す。
「今日は身内が……悪うございましたわ」
私が勢田の老女の相手をしている間、ケイさんは毎日送り迎えしてくれる真知子さんの部下と連絡をとったのだそうだ。しかし連絡がつくまで少々手間取ったらしい。
「直通の電話番号に連絡をくださってもよかったんですのよ」
「そうすればよかったですね」
大体のところ老女が感情的にぎゃんぎゃん喚いていただけなので説明するほどのこともないのだが、小応接室で写真を撮っていたことに触れると真知子さんは頭を抱えた。ケイさんはきょとんとしている。
「そういえばテーブルに壊れたカメラが載ってたな」
「ええ。まだ新品だったようなのに壊れてしまって」
カメラが趣味、というわけでもなさそうだった。じゃあ、何を撮っていたんだろう。以前の破壊行為により小応接室の家具や花器はあまりお高くない地味なものに替わっている。手すりの塗りがはげるんじゃなかろうかとか、手を滑らせてひびを入れてしまうんじゃなかろうかなどと気を遣わなくてよくなったが、さびしい。壊れてしまったものは仕方ないけれど。
「ほんとに恥ずかしいことですけど……白梅荘の資産価値を見積もろうとしていたのではないかと思いますの」
「へ?」
小応接室の内装なんぞ撮影したところで白梅荘の資産価値を計ることなどできないに決まっている。そもそもどうして勢田の老女がよそんちの不動産の価値を気にするんだろう。ケイさんも目をぱちくりしている。
「あ。そういえば」
思い出した。
――当家から乙女として孫の理沙を召し上げておいて相応の報酬がなかったのだとか。
「白梅荘からインセンティブが支払われていないということか」
「ええ。そういう話のようです」
「いえいえ、これはあの人の勘違いですの」
真知子さんはため息をついて肩を落とした。話しづらそうだ。ケイさんが私の後ろに立った。大きな掌で私の頭を撫でる。見上げると、親しくやわらかい手の感触と程遠く、ケイさんは厳しい目をしていた。
「ちゃんとことばにしていただかなければ分からない。そういうことって、案外多いものですよ」
真知子さんがうつむいた。ケイさんの低く艶やかな声がゆったりと響く。
「詩織は確かに察しの良いところがあります。だけど普通の女性なんです。誰かれ構わず精神干渉しているわけでもない。あなたがたの過大評価がむしろ詩織を苦しめることもある」
「……そうですわね。でも」
「確かに、医者としてある程度察することはできます。しかし俺からはいえない」
そんなにいいにくいのなら、といいかけた私を背後に立つケイさんが制した。
真知子さんはのろのろと顔を上げ、いった。
「わたくし、実は乙女ではありませんの」
へ?
真知子さんの白梅荘賃貸契約の書類はちゃんとある。法的な拘束力はないが、私的な契約である乙女契約書もちゃんとある。真知子さん本人、そして家族の代表として一人娘である勢田佐和さん、つまり理沙嬢の母との契約書もそれぞれにある。この私的な契約書は白梅荘の乙女として契約している間、結婚や出産、遺体の処理方法などを白梅荘当主である私にゆだねることに同意したものだ。実家が既に滅んでなくなってしまって家族との契約が結べないケイさんや小梅と違って、きっちりと手順どおり乙女契約を交わせているのが真知子さんのケースだったはずだ。
「そうじゃありませんわ。確かに乙女契約を結んでおりますけれどわたくし……書類の上だけの乙女なんですの」
「……?」
「わたくしには異能が……ありませんの。ケイちゃんには気づかれていましたのね。わたくしには欠けていますの、ハイブリッドコードが」
真知子さんはうつむいて、空になったぐい呑みを指で弄んだ。
「ケイちゃんには隠せませんわね。わたくし、末期癌ですの。もうそろそろ、なんですわ」
「あと、どのくらい……」
「……次の梅の花は見るつもりでおりますのよ」
そんな。目の前が暗くなる。
分かっている。長幼の順があり、わたしたちより早く真知子さんは去ってしまうのだと、他の誰でもない、この私が理沙嬢にその理を説いた。分かっている。だけど納得できない。
――次の梅の花。
多々良が浜は温暖だ。春の訪れも早い。実験記録装置の擬態のひとつであり、この屋敷のシンボルでもある白梅の、節くれだった老木にこぼれんばかりに白い花々が咲く早春まで半年もない。




