第九話 末枯(二)
緊迫した男の声、忙しない足音が近づいてくる。何事かと応接室の入口へ目をやると、理沙嬢の父が駆けこんできた。
「母さんッ……」
そして明らかに壊れているぴかぴかのコンパクトカメラに目をやり、顔色を失った。
「白梅様……」
異教の聖人ライクな頭頂部をこちらへ向けて土下座しそうだったので慌てて止めた。
「勢田さん、おやめください。何も……」
「どうしてこの人を白梅様だなんて呼ぶのッ?! 本来あなたがここの当主になってしかるべきでしょうッ」
「母さん、やめてくださいッ」
親子で揉めはじめた。仲裁していいものかどうか、迷う。運動に向いたスペースではないので揉み合わないでほしい。特に一方はどえらく小柄で鶏がらみたいに痩せた老女なので何かの拍子にぽきっと怪我しちゃいそうですごく心配だ。すぐに喧嘩をやめてほしい。しかしどうやって仲裁したものか全く見当がつかない。あわあわしていると頭上に影が差した。
「落ち着いてください」
ケイさんがぬうっと顔を出した。掴み合いを始めそうだった二人がぎょっとした顔をしてケイさんを振り仰ぐ。こういうときの大きい人の威圧感ったらない。おおう、そうだ、背の高さを有効活用しなければ。便乗して私も隣でにゅうっと顔を出した。
そこからしばらく大変だった。「帰る」「帰らない」と親子が再び揉め、とにかく落ち着きましょう、と私が茶を淹れるために中座しようとすると老女が
「当主に話があって来たんですッ! 逃げるとはなにごとッ」
といきり立ち、母親に対して息子がまた疲労を隠せない様子で声を荒らげる。これではうかつに席を外せない。そうこうするうちにずいぶん早い時刻だというのに真知子さんが帰宅した。後ろに部下を連れている。
「まあ、珍しくにぎやかだと思えば勢田の奥様」
「マルカワのッ……」
「わざわざこちらにお見えにならなくてもわたくし、ずっと社におりましたのに」
「すみません、会長」
理沙嬢の父が頭を下げる。
「すぐに連れて帰ります」
「そう。――お手数をおかけするけど」
真知子さんが後ろを振り返った。やわらかな笑みをたたえて部下の男性が
「お送りいたします」
と応えた。
大した時間ではなかったんだと思う。しかし疲れた。ケイさんと私はそのまま小応接室でぐったりソファに背中を委ねたままへたりこんでいる。
「ケイさん。あの……お話があるんですが」
「……聞こう」
「あー、いや、いいです」
あまりに疲れた様子なのでいいだしづらい。気持ちは分かる。あんなに小さくて痩せっぽちのくせに勢田の老女はやたら声が大きくパワフルだった。しかも持続力がすごかった。抜き針の儀式のときの理沙嬢母なんか目じゃなかった。
「また後で」
「そうか」
嵐太郎から託された祟り神文書の記憶や昨夜共有した記憶、封印が解けたのに開けて確かめることのできなかった記憶のことについて話したほうがいいような気がする。でも何から話せばいいのか、どう話せばいいのか分からない。
ぐい、と抱き寄せられた。
浅黒い肌にくっきりと刻まれた皺。厚い唇に太く猛々しい鼻すじ。白髪交じりの硬そうな髪がかかる垂れ気味の眉。唇が重なる少し前、ケイさんは目を閉じた。私も目を閉じる。
目を合わせられない、大きい人がそう感じているのが分かる。私もそうだから。こんなに近くにいて感覚を共有して、すべてを分かち合える、絡み合い溶けあっているはずのに私たちの間にはこんなに深い隔たりがある。
祖父と周平が知恵者の播種計画に寄せる憎悪。その憎しみに巻きこまれた「島」の人々とケイさん。時限発火装置のように記憶と義務を頭の中に仕掛けられ白梅荘に送りこまれた私。
あなたが私のすべてを理解できないように、私もまたあなたのすべてを理解できない。
フリルとレースをごってり盛った部屋着に着替えた真知子さんが階段を下りてきた。通勤着と同じくワンピースとストールの組み合わせなんだが、決定的な違いはフリル及びレースの量だ。通勤着は若干フリルとレース、エキセントリック度合いが控えめだ。わっさわっさ音を立てそうなくらいふりふりひらひらした部屋着はその分色彩がおとなしめといえよう。他の人が受け付けないであろうそういう服を真知子さんはごく自然に着こなしている。そしてよく似合う。
もの思いにふけっているのか、踊り場で立ち止まる真知子さんの片頬に、明かりとりの窓から差しこむ晩秋の力ない日光があたる。美しいこの人も経年による淀みと無縁でいられない。いつもなら年齢のわりにふっくらして見える頬がしぼみ、皺が深く刻まれている。無理もない。日々の激務に加え、今日の件もある。勢田の老女は娘や孫を通じて真知子さんと姻戚関係にある。その老女の軽々しいふるまいに心を痛めているのだろう。
階段を一段、二段上り手を差し伸べる。
私の伸ばした手に気づいた美しい人は光の中で微笑んだ。ふわふわとウェーブのかかった銀髪が皺の寄った額や頬の周りで躍動している。踊り場からふわふわと軽いステップを踏み階段を下りてきた美しい人が私の手をとった。
「素敵。わたくし、嬉しくなってしまいますわ」
真知子さんの頬が薔薇色に紅潮する。
「詩織ちゃんたら、王子さまみたい」
男か。来客応対用にワンピース着てても私、男に見えちゃうのか。がっくりきたが気を取り直し、真知子さんを厨房へ導いた。
「よろしいじゃありませんの」
「いや、まだ昼間ですよ」
「やだ、イケズ」
「やだイケズ、じゃないですよ。可愛くいえばいいってもんじゃありません」
疲れているんじゃないかと気をまわしたらこの体たらくだよ。真知子さんが呑むといって聞かない。何を呑むってお茶とかジュースとか薬とかそういうものじゃない。飲んだり服用したりするんじゃない。呑む。真昼間だってのに美老女に酒をねだられている。
「だってえ、せっかく早く帰ってこれたのにいいい」
いくらおばあちゃんといっても美しい人の愛らしい上目遣いというのはハートにずっきゅんずっきゅんくる。だからといって昼間から飲酒なんて、と渋っていると、大きい人が厨房にやってきた。
「豆腐で何か作りましょうか」
ケイさんがばばば、とエプロンを装着しながらいう。
「あら、よろしいですわね」
「……ちょっとケイさん」
「まあ、いいじゃないか」
スツールを出して真知子さんに勧め、ケイさんは酒肴の支度を始めた。ちょっとこの人お医者さんのくせに真知子さんの酒量について基準が甘くないか。激甘だ。はい、きみも、とスツールを押しつけられ、あれよあれよという間に真知子さんと私の前に二人分、酒とアテが並んでいる。
なんで? 私も呑むの?




