第八話 末枯(一)
ひと雨ごとに冷えこみが厳しくなってきている。真知子さんの退職がようやく決まった。
「年内でどうしても――そう会長がおっしゃいますので」
毎朝つやつやの高級車で迎えに来る折り目正しい部下だという男性が残念そうに目を伏せる。ここで余計なことを口走り「やはりまだお元気ですから」「さあもうひと踏ん張り」などと引退撤回の口実にされてしまっては大変なので、黙って苦笑するにとどめた。
――送り迎えしてくれるのはありがたいんですが、本人の希望とはいえ、ああいうことをさせるのはどうかと常々思っていますの。
まだ中年の域にはまだ遠い、かといって青年というには丁寧で落ち着きの勝った物腰のその男性は毎朝決まった時刻にやってくる。今朝も穏やかな笑みをたたえたその人が真知子さんをドナドナしていった。
ひんやりとした朝だ。晴れて空が高い。太陽に夏の頃のように激しく濃く照りつける勢いはない。庭の木々の葉も枝先から徐々に色を失ってきている。
書類仕事もなく、家事も少ない。今日はそんな日だ。家の中の仕事のもろもろにひと段落つき、お茶でも入れようかと思ったとき、インターフォンが鳴った。真知子さんは出勤しているし、嵐太郎と白梅は菜園の手入れをしに行っている。客の予定はない。ケイさんと顔を見合わせた。こういうことが全くないとはいわないが、たいてい悪いことが起きる。
「小応接室に通す客だったら俺が茶を出して対応する」
「分かりました。着替えてきます」
さして待たせているわけでもないと思うのだがまたインターフォンの呼び出し音が鳴った。客が立て続けにならすためぶっぶっぶぶー、とせっかちなリズムを刻んでいる。
インターフォンの受話器をとったケイさんの表情が苦笑から戸惑いに変わった。受話器からぎゃんぎゃんとけたたましく甲高い女性の声が漏れている。「こちらはいいから着替えておいで」とケイさんが受話器を押さえていうので、そうさせてもらった。大丈夫だろうか。
小応接室に通した客に茶を出したというケイさんが合流し、着替える。
どうも来客はご機嫌斜めらしい。ケイさんも初対面だというその人は理沙嬢の祖母にあたる老女だそうな。真知子さんではないもう一人の祖母、つまり勢田家の当主である父方の祖母ということになる。正直なところ、用向きの見当がつかない。
「当主を呼べ、の一点張りで」
とケイさんがため息をつきながらネクタイを結んでいる。そこまできちきち整える必要があるのだろうか。理沙嬢の祖母にあたる人なんだし、息子の嫁の母にあたる真知子さんがここに住んでいることももちろん承知の上で来ているんだから、と思ったんだがどうも風向きがおかしい。名前を聞き出すのも苦労したらしい。「わたくしをご存じないの?」とびきびき青筋立てて激昂したのだとか。常々ケイさんの猛獣系マダムあしらいに敬意を払ってきた私からするとにわかには信じがたい難渋っぷりだ。
「分かりました。行ってまいります」
「あ、でも……」
「すぐに来てくださるんでしょう?」
もちろんだ、とうなずくケイさんを置いて部屋を出た。あともう少しで小応接室、というところまで来たんだが足をとめた。
かしゃ。かしゃ、かしゃ。
シャッター音がする。カメラだ。
なんでカメラ? 何を撮ってるの? 今時珍しいレリーフの施された化粧漆喰とか? 建築マニアなの? もともと来訪の意図が読めなかったがますます分からなくなった。何しに来たんだろう。
そうしてフリーズしていると、ぱたぱたとスリッパの音がして、小応接室の入口から小さい人が顔を出した。目が合う。構えた両手から新品と思しきぴかぴかのコンパクトカメラが滑り落ちた。
がちゃ。
嫌な音だ。間違いなく壊れてる。
怒られてる。すっごい勢いで怒られてる。身に覚えのないことで怒られている。
目の前でけたたましく私を叱責するのは痩せた老女だ。栗色に染めた髪は薄めだがきれいに整えられている。皺の寄った額、尖った顎。福々しさはないが色素の薄い、整った顔立ちで若い頃の華やかな美しさがうかがえる。そして小さい。どのくらい小さいかというとソファに深く腰掛けているわけでもないのに足がちゃんと床に着いてない、少し踵が浮いて見える、そのくらい小さい。もしかしたらつま先を立てる癖があるのかもしれないし、足の短い人なのかもしれない。それはないか。じろじろ観察して時間が余るくらいパワフルに、目の前の老女は怒り続けている。
「どうして壊しちゃったのッ」
「そのカメラを壊したのは私ではありません」
「わたくしが悪いとでも?」
「そのカメラを落としたのは私ではないと申し上げているのです」
「んまああああ、生意気なッ」
「カメラは間違いなく壊れていますが、中身の画像のデータは無事だと思いますよ」
「あら、ほんとに?」
老女の勢いが緩んだ。表情も緩んだ。
クリームの色無地の着物、よく見ると総絞りだ。錆びた茶色に渋い金箔の萩の花模様の帯や金茶の帯締め、生成りの半衿、ひとつひとつが年齢相応にゴージャスだ。こうしたものはセットひと組だけ持って決め時に毎回同じものを着て歩くというわけにいかない。和服に詳しくない私の目で見ても着道楽ぶりがうかがえる。
私の貧弱な社会人及び人生経験じゃこうしたパワフルなおばさまに対してゴージャスな持ち物をほめるくらいしかとっかかりを思いつかないんだが、先にがーがー喚かれたのでそのタイミングも逸した。当然「データは無事(多分)」にすがる。それが藁であってもすがる。
「ええ、無事だと思いますよ。何ならこちらで確認いたしましょうか?」
「確認って」
「メモリーカードとパソコンをつないで……」
「撮った写真をご覧になる?」
「ええ、まあ、見たくなくても見えちゃうかと……」
「駄目」
ぷい、と横を向く。鶏がらのように痩せた老女なのだが癇性な言動のわりに愛嬌がある。しかし、だよ。何を撮ってたんだよ、ここで。見られちゃ困るものなのか。
「今日はどのようなご用件で」
老女は横を向いたまま顔を動かさずこちらを一瞥した。
向かい合う老女は私が何者か分かった上で電撃訪問かましてきているが、こちらはよく知らない。理沙嬢の母からちらりと聞いた限りでは勢田の老女が私に好意を抱いている可能性は限りなく低い。それは分かっているがなんで初対面で拗ねられなきゃならんのか。扱いに困る。
「わたくし、あなたをこの家の当主と認めたわけじゃありませんわよ」
つーん、とそっぽを向いたまま、老女がむすっと独りごちた。私に向かっていってるんだろうけどお顔があさってを向いているんじゃ会話になっているとはいえない。いわれていることも難癖としかいいようがない。
「先代当主からのゆ」
「でも、孫がいうとおり悪い方じゃないようですわね」
出たよ。多々良が浜ネイティブ得意の発言遮断。これって対象が私だけなのかそうでないのかすっごく気になる。
「――そういっていただけて嬉し」
「ただし!」
ばん、と老女がローテーブルを掌で叩いた。この動作のために危なっかしいくらい前のめりになり、そしてまたソファに戻った。今度は勢いがつきすぎてソファに深く腰がはまってしまったのでつま先が完全に床から浮いている。それでもちゃんと床に足をつけなければと思うのだろうか、スリッパの先が着地点を求めふるふると震えている。愛嬌ある仕草だが老女は激昂している。
「当家から乙女として孫の理沙を召し上げておいて相応の報酬がなかったのだとか。そして報酬のないまま一方的に乙女契約が解除されたと」
「お言葉ですが」
ここは強めに声をかけた。
「こちらから一方的に乙女契約を解除したのではありません。お孫さんが強く希望されたのです」
「でもッ――」
「乙女契約は一方的に当主が解除できるものではないのです。たとえ私が館の主であっても」
す、と老女の顔から血の気が引いた。その面に恐怖が見える。本来、一度結べば解除できないはずの乙女契約を無効にする、白梅と乙女の間にあるものを断ち切る力を持つのが館の主だ。
――しらうめさんは勝手におかしくなればいい。
――あたしたち土地の者はね、土地神さまに頼らずにやっていく。
そう言い放った臼田青年の母の、ことばとうらはらの怯えた表情を思い出す。目の前の老女は近隣の人々より内部事情に詳しいはずだ。私の異能を知り、それを恐れている。無理もない。生まれながらに祖父にまで疎まれたのだから。触手を頭から生やし、人を傷つけ、そのくせ汚濁に耐えられない。祖父の記憶の中の禍々しく忌まわしい自分の姿を思い出し、私はうなだれた。
サブタイトルの末枯は「うらがれ」と読みます。草木の先が枯れることです。秋の季語です。




